しかし、30歳を目前にして、惠子さんは静岡の実家に戻ります
「両親は大正生まれ。高齢になって動けなくなる前に、戻って家業を手伝ってほしいといわれてまして。でも、私は実家に戻る気などなくて、延ばし延ばしにしてきました」

惠子さん自身もそうですが、「両親もひとり娘の私に3代目を継がせる気は全くなくて、婿養子をとって継がせようと考えていました。要は母のように、内助の功を発揮して、家業を支えてほしいと考えていた」といいます。

確かに、昭和の時代まで、世の中はそういう風潮でした。
いわゆる「跡取り」は、家の男子(長男)がその役目を負っていました。
男の子が生まれると「でかしたぞ!」と喜ぶのは、武家社会から変わらない因習で、娘しかいない家は婿養子を迎え、娘に事業承継させる発想はなかったのです。
それは、平成時代になっても、21世紀になっても、なかなか改まらず、和久田家もその例に洩れませんでした。

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「家業を手伝うことになっても、両親は、私に良い婿を見つけて結婚してほしいということ以外、何も期待していないわけですから、地元の調理師学校に通ったり、時折り、東京に出てナレーションの仕事を受けたたりして、けっこう時間を持て余していました」という惠子さん。しかし、家業については、気がかりなこともたくさんあったといいます。

IT技術の進歩によって、世の中の仕組みがさまざまな変容をとげている中で、惠子さんは、「実家の工場は老舗にありがちな旧態依然としていて、私がいた広告代理店では当たり前になっていたOA化をはかれば、作業効率も、もっと上がるのに!」という思いが強くなります。

惠子さんは「まず、母にいったんです。これからは給与計算だってパソコンでする時代よ」と、改革に乗り出します。「それまで母はずっと算盤で計算してたんです!」徹底したアナログ派のお母さんにはきっとパソコンに抵抗があったでしょうが、サクサクとパソコンを使いこなす娘の姿に、「えー、こんなに楽に計算できちゃうのね」、と驚いたといいます。

とはいえ、「OA化に理解を見せた母でしたが、母が使っていた算盤はやはり、私の宝物。今もずっとデスクの引き出しにあります」と惠子さんは懐かしい表情を隠しませんでした。

パソコンで給料計算のイメージ
給料計算をパソコンでやり始めた惠子さんを見て、お母さんは「えー、こんなに楽に計算できちゃうのね」と驚いたという

一方、お父さんに対しては、「社長である父を立てる」という気持ちと「時代に合わせた改革を提案したい」という気持ちがうまくかみ合わず、「父を立てようという気持ちがあればあるほど、父とぶつかり合ってしまって周囲をやきもきさせた」といいます。
「父にとっては、私は何歳になろうが可愛い娘であり、周囲も温室で育ったお嬢ちゃんに何ができるという冷めた見方でした」。

わかります!
「可愛い娘には一切の苦労をさせたくない!」というのが父親の本心であり、愛情です。女性の能力を認めようとしないコテコテの男社会から、愛する娘を守りたいのは父親の人情でしょう。
しかし、惠子さんには父親、そして祖父のDNAも流れています。
ぶつかり合う展開になるのは、致し方なし。それを乗り越えるドラマチックな展開が必然的に起こってしまいます!

当然、惠子さんは、めげずに少しずつ自身の居場所を確立していく努力を怠りませんでした。
「父を説得して、営業に同行させてもらうようにしました。その際、しっかりとした議事録を起こすのを私の仕事にしました。当時、父をはじめ古くからいる方々は、なんでも頭に中で覚えていて、メモしても丸めて捨てしまうのが常でした。そんな中で、私は何でも記録して情報の共有化をすることから始めたのですが、これが役に立ったことがあり、それから私に対する父の見方も少し変わってきました」と惠子さんはいいます。
「それは、取引先との納期のことで齟齬が生じたことでした。先方がいう納期が一日早かったのですが、私の議事録には一日遅い納期で話し合われていて、その議事録があったおかげで、一日納期を延ばすことができたのです

情報の共有化
惠子さんが始めた「情報の共有化」がピンチを救ったことも

惠子さんの父親世代で、町工場の経営者や老舗商店の店主であれば、仕事の責任を一手に背負って、お金のことも従業員のことも脳みその中に叩き込んでおき、台所事情がどうなっているかも他の誰も知らないというのも当たり前だったでしょう。
しかし、惠子さんが社会人になったころから、IT技術によって情報処理が格段と進み、情報は開示・共有が世の常識と変わってきました。
昔ながらの町工場も旧態依然とはしていられない! それには変える人のチカラが必要で、それをやるのは惠子さん自身しかいないだろうという気持ちが、だんだん本人の中で確固たる覚悟になっていったといいます。

「小さなことでもいいから、できることからやっていこう。私には、広告代理店の経験しかないから、その経験で良かったことは、家業にも取り入れようと。驚いたことに、普通の会社なら当たり前にやってる会議すら、父は『工場に会議なんて必要ない』と否定する人でしたからね。でも、会議を開くと最初は少数でもだんだん出席してくれる人が増えていって、ああ、やり続ければ変わるんだって実感しました」という惠子さんは、周囲の反応を見つつ、「父やベテランの面子を潰さないよう」工夫と配慮で、だんだん、古株の懐にも入って、受け入れられるようになっていったのです。

そして、先代社長の逝去に伴い、惠子さんが事業承継するという物語へと繋がっていきました。

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