700人以上所属する日本放送作家協会(放作協)がお送りする豪華リレーエッセイ。テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家、そして彼らと関わる様々な業界人たち・・・と書き手のバトンは次々に連なっていきます。ヒット番組やバズるコンテツを産み出すのは、売れっ子から業界の裏を知り尽くす重鎮、そして目覚ましい活躍をみせる若手まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜くユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
連載第199回は、漫画原作や映像制作と多岐メディアで活動する潮路奈和さん。
お小遣いをあげたがる祖母
円安なんて言ってみたものの、今回綴るのは面倒な為替市場ではなく、どこにでもいる孫と祖母との話だ。
私の祖母は気が強い。ついでに口も態度も強い。そしてよくお小遣いや物をくれる人だった。
今思うと、孫かわいさの表現方法として課金が彼女にはストレートに響くひとつだったのだろう。
今で言うなら推し活である。
気持ちはわかる。私も好きなものには課金をしたい。
喜んで欲しいし、笑って欲しい。推し活にはコスパは無縁。
母は祖母のこういった行動にあまりいいとは思わなかった。
母の価値観は「情緒はプライスレス」主義。
形なきものに重きを置く母と形にすることに重きを置く祖母とは水と油だった。どちらの価値観も間違ってはいないが、このふたりは基本的に気が合わないので、子供としては少々気を使う。そんな時に考えていたことがある。
ここに1000円があったとしよう。それを誰かに渡すとき、その1000円は1000円以外の意味や価値を持つことが少なくない。
1000円のものを1000円で引き換えるならシンプルだ。だがそこに感情が付随するとなると1000円は1000円の価値ではなくなってしまう。
祖母はその付随価値が顕著で想いをお金に乗せる人だった。
祖母を円安というワードで思い出したのはそこだ。
祖母が想像する豊かさ
円安とは、外貨に対して円の価値が下がること。その結果、輸入品は同じ円では変えないので高くなる。
この相対で流動する円相場は、お金に付随する額面以外の価値と似ているのではないだろうか。
大正末期生まれの祖母は青春時代、貧しい時代を過ごした人だ。
祖母は、豊かさを与えることを愛情表現としていた気がする。
彼女にとって世界は円安で、たくさんの円を注ぎ込んで、自分が与える愛を表現していたようだった。
それを唯物的な虚しさと取るか、満たされる幸せと取るか。それは人それぞれだ。
そしてそんな価値観の祖母はそれで幸せだったのか、鬼籍に入った今は知る由もない。
ケチケチすることを祖母は嫌った。
祖母自身、着道楽でお金を使うことが好きだった。おしゃれが好きだったのはもちろんある。だが、若い頃にこそ欲しくて手に入らなかった感情を拾っているようにも思えた。
夏が近づくと、祖母は私に浴衣を買ってきた。青紫の上品な浴衣だ。
私の好みを確認しないが、私の目から見てもきれいだと思った。
センスを褒めると祖母は少し得意げな顔になる。自分のセンスに自信があるし、自分が選んだものを着せたいのだ。
私に浴衣を見せながら、若いときに似合う色だと、祖母は言った。
好きな色なのに、祖母はもうその色の浴衣に袖を通すことはない。
祖母の『円』の価値
好きな格好を好きなようにすべき。
そんな風潮がはっきりと表に出てきたのは、比較的、最近の話だ。
今でも、気にするなと言いつつも、「歳に合わせたもの」だの「立場に合わせたもの」だの、見てあれこれ言う人はいる。
祖母はそういう人の目は気にする方だった。
性格から考えて、自分を押し通すかと思えばそうでもない。好きな格好をするよりは良識人であると見られる方を重視した。
その割には振る舞いがマイペースではあったのだが。
祖母は若い時に手に入れられない時代を生きて、それを自分ではなく、孫に与える。
欲しいものを好きに買えるようになっても、祖母は本当の意味で、過去の自分には与えることはできない。
若い頃はお金があっても手に入らなかったもの。
祖母の物理的なものに対するこだわりは、そこにあるのかもしれない。
どんなに円を持っていても、ものがなければ引き換えにはならない。祖母が若い時代に過ごした世界はとてつもなく、円安なのだ。いくら積んでも欲しいものはなかなか手に入らない。一般的に言えば、インフレである。
そんな祖母が「物理的な豊かさを与える」という行動には、愛されたいとか、ものへの執着ではなく、私には愛情としか受け取れなかった。
目に見えない価値は何が決めるのか
とはいえ、そうやって受け取り続けるのも、なんだか自分が守銭奴か欲張りになってしまうようで、少し気は引ける。
単純に愛情を与え、愛情を返すだけで済むものを、私と祖母の間には、何かしら介在させるものが必要だった。お小遣いであったり、贈り物であったり。
そして私が何気なく贈ったものも、祖母は喜んだ。だが時々、喜んだ後に贈ったものを忘れたりもする。
祖母は単に、誰かに何かを贈られるということが嬉しかったのだろう。
何を貰うかは問題ではないのだ。自分が誰かに贈る時に喜ばせたかったように。
目に見えない感情に、価値をつけるような話かもしれない。だけど、こんな風に価値を見える形にするとき、ふと、思う。
円相場のように相対的にバランスを取った価値の数値化とは違う、人の想いの価値の額面は一体どう決まるのだろう。
祖母と最後に会ったのは、祖母が入院したベッドの上だ。
もう元気もあまりない中、いい大人の私に向かって「財布を取ってくれ」とせがむが、財布は病室にはなかった。祖母は心底残念そうに指を何度も動かした。
よく見ると、それはお札をポチ袋に入れる仕草だった。
その時、自分がどうするのが正解だったのか、未だにわからない。
だが少なくとも、その額面では0円の空気のお札は、それから私の記憶にずっと価値あるものとして残っている。
祖母が私に贈りたかった、最後のお小遣い。
0円なのに価値がある世界はきっと計算できないほど、円高だ。
次回は中野俊成さんへ、バトンタッチ!
ぜひお越しください!
舞台「ノンセクシュアル」
日時 | 2025年2月7日(金)~12日(水) |
場所 | 横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール |
出演 | 松村龍之介 / 新井將 星元裕月 / 加藤ひろたか(#柿喰う客) ※Wキャスト 小柳心 神里優希 立道梨緒奈 |
演出 | 鯨井康介 |
上演台本 | 潮路奈和 |
主催 | Zu々 |
共催 | 横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール |
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。