物理の学問において、世界的に高名な中村純氏。その実力は1997年に、「ハイパフォーマンス・コンピューティング」の領域で著名な賞、「ゴードン・ベル賞」を受賞したほどだ。また、中村氏は「日本パンフルート協会」の会長としての顔も併せ持つ。【第2回】では、中村氏の若き日の貧乏生活 in イタリアに迫る。

パンフルートと一人の物理学者~数奇な運命の出会い~【第1回】

中村純(なかむら・あつし)
広島大学 情報メディア教育研究センター 名誉教授
大阪大学 核物理研究センター 協同研究員
一般社団法人 日本パンフルート協会 会長

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中村さん、イタリアで月3万円の貧乏生活を余儀なくされる

ペリー さて、ここで、中村さんの半生を振り返りましょう。中村さんがパンフルートと運命の出会いを果たすまでのプレ・エピソードです。中村さんが中村さんたる所以、そして現在の中村さんの穏やかでコケティッシュなパーソナリティが形成された重要な時期とも言えるでしょう。

中村さん ちょっと大げさかもしれませんけどね(笑)。若き日のイタリア時代はそれまでの私の価値観をガラッと変えてしまったぐらい、衝撃的なものでした。

ペリー 中村さんは、30代の頃は主にヨーロッパを拠点にして、研究をされていたそうですね。

中村さん 1980年、私がちょうど30歳の頃です。早稲田大学の助手をやっていたんですが、突然1年間ぐらい留学をしようかなと思い立ちましてね。イタリアへ行ったわけなんです。

トラリピインタビュー

ペリー どうしてイタリアを選ばれたんですか?

中村さん 当時、私より少し年上の方で、物理学の領域でとても素晴らしい仕事をしている先生がイタリアにいらっしゃったんです。ムルク先生ではないですよ(笑)ここではまだ出てきません。
えーと、話を戻しますと、その先生の元へ行ってぜひ学びたいと、当時私は思ったんです。そこで、『イタリア政府給費留学生』という制度に応募したんです。

ペリー 『イタリア政府給費留学生』……?

中村さん イタリアにはそんな制度があるんですよ。実はこの制度は、美術や音楽の分野において、世界的にとても有名な奨学金なんです。例えば、画家や音楽家を志す人がこの奨学金を貰えれば、もう将来は約束されているようなものです。

ペリー 「仮面ライダーで主役を勝ち取れば、後々絶対売れる」とか「ホリプロスカウトキャラバン」みたいな若手登竜門的存在でしょうか? えっと、でも、中村さんは物理学者ですよね?

中村さん もちろん(笑)。私は理工系の分野で応募しました。実は当時、理工系で応募してくる人間なんてこれまでいなかったんです。どうやら、私が理工系で奨学金を取得した最初の人間だったようです。

ペリー それはすごいです! なんだか盲点をつかれたようです。

穏やかで菩薩のような中村さん。”優しい国語の先生”といったイメージ。話していると物理学者として高名な方ということを忘れてしまいそうになるほどです。

中村さん ただ、貰える生活費が恐ろしいほど少なくて……。詳しいことは、取得前によく知らなかったもので。

ペリー それは恐ろしいです……。1カ月でいくら貰っていたんでしょうか?

中村さん 日本円に換算すると、1カ月で3万円です。もちろん、この中から家賃や食費、水道光熱費まで全部自分で賄わなければなりません。

ペリー 住居があればまだしも……。絶対生活できないですよね?

中村さん 渡航前、不安になって大使館で聞いてみたんです。「これで生活できるんですよね?」と。そうしたら「ハッハッハッ。できるわけないじゃないですか(笑)」と返されました。どうやら3万円では、家賃さえ払えないようです。でも今更手遅れですし、見切り発車で出発しました。

ペリー 思い切りましたね。

中村さん そして、ようやくローマの研究所に着くと、一応アパートが用意されていたんです。ですが、家賃だけで5万円くらいかかってしまうんです。「月3万円しか貰えないんです」と白状すると、これには向こうの研究所の方々もぶったまげていました。

ペリー 2万円オーバーしてしまいました。結局どうされたんですか?

中村さん、イタリアの人情に助けられる。世の中捨てたものじゃない。

中村さん 私の先生だけでなく、研究所のみなさんが寄ってたかって、私を心配してくれるんです。やっぱりここがイタリアのいいところですよね。たとえ直接知らない人でも、自分のことのように真剣に解決策を考えてくれるんです。

ペリー 世の中、いい人はどこかにいるものですね。

中村さん そのとき、その中の1人が家を貸してくれることになったんです。その方は、ちょうどスイスに2年間留学することになったらしく、自宅の留守番を頼みたいとのことでした。コーヒー代や食事代のことを考えると、家賃1万円ぐらいが相場ではないかと、言ってくれたんです。これでも生活はカツカツで、貯金する余裕なんてあるはずはないですが、とりあえず人間的な生活は送れます(笑)。

ペリー 3万円のうち家賃で1万円が引かれるわけですね。残り2万円の内訳はどんな具合でしょうか?

中村さん 食事代も、イタリアは非常に良心的でした。なんと、研究所の中の食堂では、1食100円くらいですんじゃうんです。研究所側が値上げを目論んでも、みんな一致団結して反対運動を起こすんです。だから、戦後からずーっとこの安すぎる価格で提供しているそうなんです。
いやー、イタリアって本当に面白い国です。あの時に私は人間が変わっちゃいました(笑)。

ペリー 時の流れがゆったりしていますね。80年代というと、日本ではたしかバブル時代ですよね? ということは、中村さんは、バブル時代のイケイケでギラギラでガツガツしていた日本の社会に染まらずして、生きてこられたんでしょうか?

中村さん 確かにそうですね。ある意味、ちょうど日本が大変なときに、イタリアのまったりとした空気感のもと生活ができて、楽しく過ごしていたように思います。

人情をもってしても生活は苦しい……。そうだ、スイスへ稼ぎに行こう!

中村さん 最初はなんとか生活できていたんですけど、やはりじわじわと生活は苦しくなってきます。ですが、それを傍目で見ていた研究所の方々のはからいで、10万円のボーナスをいただいたんです! 研究生ですし、本当はそんなもの貰えるはずはないんですけど、なんとかお金を工面する方法を周りのみなさんが考えてくださったんです。

ペリー ここでもイタリアの人情が発揮されます。世の中、悪い人ばかりじゃないって改めて実感した気分です。

中村さん それでなんとか当面の生活ができることになりました。ですが、私がもらっていた奨学金の制度では、「他からお金を貰ってはいけない」という規則があったようなんです(笑)。

ペリー え? じゃあこの話はオフレコにしましょうか?

中村さん いえ、どうぞ書いてください(笑)。研究所の方々が、どうにかこうにか正式な書面を用意して、まあ、そのへんは何とかなったんですよ。「書類のことで、もし他から何か言われたら『間違えました』と言いなさい」と言われましたよ。また、「2回目のボーナスをあげることは難しいから、どうにか他の方法も考えないと」と、どこまでも親身になってくださったんです。

ペリー ここまでくれば、もはや中村さんの人徳もあるのかもしれませんね。海外でお金がない中放り出されるなんて、こんな不安なことはありませんよ……。

中村さん でも、大事につかっていたんですが、この10万円をもってしても1年ほどでさすがにお金は底をつきてしまったんです。

ペリー もうボーナスは貰えません。またしても中村さんにピンチが訪れます。

中村さん また研究所の方々から声をかけられましてね。今度は「スイスのジュネーブに巨大な研究所があるから、3カ月行ってきなさい」と。

ペリー それは、どういった経緯で?

中村さん 実は、スイスの研究所への派遣は、「各国で〇人ずつ」といった割り当てがありましてね。本当はその割り当てにイタリア人を使わなければいけないんです。ですが、なんと日本人の私に、貴重な割り当ての1人分を使ってくれたんです。

ペリー それは、なんと懐が深い!

中村さん スイスの研究所の給料は物凄くいいんですよ。まあ、生活費も高いんですけどね。「給料の2割を3カ月分、貯金してきなさい」と言われました。またしても研究所の方々に、生活費の工面を助けていただいたんです。
「そのぐらい貯金できれば、イタリアに帰った時、半年は生活できるだろう」と。

ペリー そういうはからいがあったんですね。みなさん本当に人情派です。なんだか荒んだ心が癒されます。

中村さん イタリアって本当に面白いです。研究所に来たばっかりのまだ他人だった頃から、友達みたいに心配してくれましたからね。「とにかくズルでも何でもいいから、こいつを助けよう!」と真剣に考えてくれました(笑)

ペリー 手段を選ばないんですね(笑)。

リアル版ローマの休日「休みは遊びに行こうぜ!」

中村さん まだまだイタリアのエピソードはありますよ。私は、研究漬けの毎日で、土曜日も日曜日も研究所に通ってひたすら仕事していたんです。そうすれば、研究所の若い連中が私のほうにやってきてこう言うんです。「きみ、何やってんの?どうして土日に研究所にいるの?」

ペリー 聞き方が非常にストレートですね(笑)。ですが、中村さんは週7日で働かれていたんですね……。そこにも驚きです。

中村さん まあ、それは最初の1カ月ぐらいのものですよ(笑)。いわゆる当時の日本的な働き方としては自然でしたから。ですが、大学を出たばかりの若い連中が、私を強引に街に連れ出すので、次第に一緒に遊びに出かけるようになりました。

働くときはよく働き、遊ぶときはしっかり遊ぶ。何事もメリハリが大切ですね(写真はイメージです)

ペリー それを聞いて安心しました(笑)。

中村さん 研究所の若い連中の間で、私のことが噂になっていたそうなんです。「土日なのに研究所にこもっている変なやつがいる」と。

ペリー 変なやつ扱いとは! イタリア人からすれば、休日に働くという行為はよっぽど奇妙だったんでしょうね……。

イタリアに行くならまずこの単語を覚えよう!「ショペロ(sciopero)」

ペリー ずいぶんイタリア生活も長くなった中村さんですが……。そういえば、中村さん、イタリア語はペラペラなんでしょうか?

中村さん これがですね、全然モノにならなかったんですよ。

ペリー いやいや、ご謙遜を。

中村さん 本当ですよ! まあ、一応ちょっとは話せるんですけどね……。ですが、休日はイタリアの20代の若い連中とつるんでいたせいで、私は、ローマなまりのイタリア語というか、若者が使うようなスラングを話しているようなんです(笑)

ペリー あのときの経験がしっかりと活きていますね!

中村さん 実はイタリアに渡航する前、日本でイタリア語の講習会を受けさせられていたんですよ。そこで学んだ中で、唯一役に立った言葉があるんです。

ペリー 唯一なんですね……(笑)。

中村さん その講習会では、よくある語学のテキストを使っていたんです。そこには例文がいくつか載っています。最初のほうには、通常だと「こんにちは」とか日常で使いそうな言葉が出てきますよね?

ペリー よくありがちですよね。「調子はどう?」「ありがとう。私は元気です。」みたいな流れには、すごく既視感があります。

中村さん 普通はそうですよね? でも、講習会では謎の「ショペロ(sciopero)」という言葉をまず初めに覚えさせられたんです。

ペリー どういう意味ですか?

中村さん 「ストライキ」です。こんな言葉を初心者が学んでどうするんだろうと、当時は疑問に思いましたよ。ところが、イタリアの空港に着いて、ローマまでリムジンバスで移動していた途端!

ペリー 途端に?

中村さん 急にバスが止まったんです。そして、バスの運転手さんが「ショペロ(sciopero)」と言って、バスを降りていきました。つまり、ちょうどその時間に運転手さんのストライキが予定されていたようなんです。

ペリー イタリア到着の数十分後に、早速習った言葉を聞くことができたんですね(笑)。

中村さん 途中まで運行してようと、時間が来れば必ず決行されます。その時私は、ショペロって最も大事な言葉なんだなと思いましたね(笑)。

こんな風に突然降ろされてしまうのでしょうか?(写真はイメージです)

ペリー イタリアへ行くなら必須単語ですね。ショペロは大事です。イタリアってストライキが多いんでしょうか?

中村さん いまはそれほどでもないですけど、80年代は頻繁にありましたよ。イタリア人はみんな慣れっこです。日本だと大パニックが起こるでしょうね(笑)。

ペリー でも残された乗客はどうするんでしょう?

中村さん もうしょうがないから、バスや電車の経営者側のお偉いさんがやってきて、途中からバスを運転するんです。

ペリー もう社長みたいな人が来ちゃうんですね(笑)。

中村さん 「ショペロ(sciopero)」は非常に実践的な言葉です!

中村さん、日本に帰るもいつの間にかクビになっていた!?

ペリー さて、時系列を整理してみましょうか。イタリアの研究所からスイスの研究所へと旅立たれ、そこで生活費の貯金をします。そこからイタリアへ戻って、ようやくパンフルートと出会えたんでしょうか?

中村さん 残念ながら、まだです(笑)。いったん日本に帰ることになりました。元々期限付きの留学でしたから。

ペリー じゃあ、早稲田大学に戻られたんですね?

中村さん いえ……。実は、いつのまにかクビになっていたんです。元々イタリアには1年だけ滞在する予定だったんですが、ついついイタリア生活が楽しくて、帰らなかったんです。そうしたら、早稲田をクビになっていました。

ペリー どうしましょう? 次はどのような手で生活を凌いだんでしょうか?

中村さん もうしょうがないので、塾の先生でもやろうかなと考えていたところに……。

ペリー また何か中村さんに転機が訪れるんですね?ですが、続きは【第3回】に持ち越します。

中村さん 次回では、パンフルートやムルク先生にようやく触れられます(笑)

ペリー 【第3回】をお楽しみに!

パンフルートと一人の物理学者~数奇な運命の出会い~【第3回】

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