ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第5回は、大阪商人の街で生まれ育ち、トップセールスマンから転進して起業した株式会社レスタスの大脇晋さんにお話を聞きました。

大脇晋さん

大脇 晋さん
株式会社レスタス 代表取締役

1979年大阪生まれ。大阪商人の街の一つ、西区靭本町に育つ。同志社大学経済学部卒業。大手最終消費財メーカー、リクルートジョブズを経てリーマン・ショックの傷跡も残る2011年「このタイミングで生き残れたら本物」と考え、レスタスの前身となる名入れ製作所を創業。リクルート時代は関西全領域支社MVPを3度獲得し、殿堂入りを果たした伝説的な営業マン。大阪をこよなく愛し、大阪のスタートアップ企業経営者の相互啓発結社「秀吉会」の中心的人物でもある。好きな言葉は「一点突破、全面展開」、趣味の釣りでは高校時代にテレビ東京のフィッシング甲子園で優勝した経験も。

株式会社レスタスホームページ
2011年6月、名入れ製作所としてスタート。年間1億5千万冊発行され、推定市場規模も700億~800億円に及ぶ(企業の)名入れカレンダーに着目。販売店、2次卸、1次卸、メーカーと複雑だった商流をシステムで簡素化、ユーザーとサプライヤーを直接繋げることで、これまでにないスピード(通常1か月程度かかった納期を最短2日に短縮)、価格、小ロットを実現、顧客の多くがリピーターとなる市場で累計取引2万5千を超える多くの支持を得ることに成功。カレンダーからタオルやうちわといった販促商材や年賀状、オーダーメード性の高いギフト商材に取り扱いを広げ躍進を続ける大阪発ベンチャー企業。2019年8月には社名をレスタス(世の中の無駄なタスクを省くレスタスクから)に変更。将来的にはIPOを足掛かりとして、日本と同様に贈答文化息づくアジアや9兆円の市場規模と言われるギフト市場に、名入れ事業で獲得したノウハウと自社開発したシステムを武器に挑戦していく。

大阪商人の街に生まれる

起業の原風景と言いますか、起業の動機、起業されるまでの歩みなど教えてください。

大脇 生まれたのが大阪の靭本町でした。他の地域の方には分かりにくいかも知れませんが、近くに商売の街、船場があり、商都と呼ばれた大阪の中心街です。靭本町の靭は、豊臣秀吉が当時船着き場で魚屋の街で、その魚屋の掛け声から名付けたという伝承もあるほど、歴史を持つ町人の街になります。私が生まれたのは1979年、小学校時代がちょうどバブルの頃でしたが、その頃にはいまだそうした町人文化、商人の文化が息づいていて、同級生の多くが商売をしている家の子供でした。バブル景気というのは物凄くて、友達の多くは高級外車が並ぶ5階、6階建てのビルに住んでいて、昔の丁稚奉公の匂いのする若い衆がお迎えをする、そんな感じの街でした。

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一方で私の家ですが、祖父は商売をしていましたが、父はドイツ語を学び留学をした後、外資系の製薬会社に就職し大阪で働いていました。勤め人としては客観的にとても順調な航路を歩んでいた人で決して貧しくはなかったのですが、子供の頃は信じられないように羽振りの良い同級生たちを羨ましく思っていました。笑い話に聞こえるかも知れませんが、起業に至る動機のどこかにその時の羨望が入っていたようにも感じています。私は中学受験で私立を受験し、大学も同志社でしたので、世間的にはいつもどちらかと言えば富裕な同級生に囲まれていたのだと思いますが、小学生のときの同級生の羽振りの良さが、強烈に刷り込まれています。もちろん、その後の話としてバブルが崩壊して消息の分からなくなった同級生も出て来ましたが、それはまた別の話になります。

しかし、すぐに起業はされずメーカーに入られています。

大脇 起業への動機を掘り起こしたコアには子供の頃の体験がある、ということで、大学を卒業する際にはメーカーでサラリーマンとして進もうと思っていました。商売には波があるということをバブルとバブル崩壊で目にしましたし、メーカーは強いと感じていたからです。

私が卒業した頃はバブル崩壊の余波の中で、就職氷河期でした。結局、ある最終消費財メーカーに入るのですが、なかなか大変でした。最初の配属は福岡でした。そのメーカーでは例年半年の研修で成績の良かった社員がそのまま福岡に残るのですが、12名配属された中の2名に残り、そのまま九州全土を飛び回っていました。ただ、担当していたルートセールスは、個人の力量がストレートには成績に反映しにくいという感じがありました。また、普段会う人がどうしても現場の担当でしたので、一方では限界も感じていました。この環境のなかで自分自身が成長できているのか、という悩みや疑問です。

トラリピインタビュー

そんな時にたまたま大学のゼミの同窓会があって関西に戻ったのですが、そこでリクルートキャリアで働いていた先輩が、1部上場企業の社長と普段会って仕事をしている、と聞いて彼我の差に驚いたのです。話をするうちにその先輩がうちに来ないかと言ってくれ、そのまま転職活動に入りました。その頃はリクルートへの中途正社員採用入社は珍しかったのですが、内定をいただき、転職しました。

うまく人が採れる経営者には「魅力」がある

リクルートでは殿堂入りも果たした営業でした。

大脇 中途入社させてもらったということで、一層成績を挙げなければと思っていたこともあると思いますが、リクルートでの営業は適性に合ったものでした。社長を指して面談に行き、とても多くの社長に会い、成績をあげていきました。起業を本気になって考え始めたのは、そこで縁をいただいた多くの経営者に刺激を受けたからです。また、成功する経営者に共通するもの、についても多くの経営者にお会いすることで、学ぶことができました。

それは何でしょう。また、営業として名を馳せたリクルートに残らずに起業されたのはなぜですか。

大脇 気が付いた最大の共通項は、うまくいかない企業経営者は、他責にする、という傾向があるということです。事業がうまくいかないのは、マーケットが悪いからだ、良いエンジニア、営業がいないからだ、と外側にその原因を求める思考や言動です。私はそうした企業が良い人材を獲得できないのは、それはあたりまえだと思いました。

逆に採用力がある経営者は常に原因を内側に求めていて、人がその会社で働いてみたいという何か、例えば、社会課題を解決できるような魅力的な事業、高い志、経営者自身が醸し出す人間的な魅力、何らかの強みがある。それを強く感じました。そうした魅力溢れる方々にお会いする中で、自分も経営者側になりたいと思い始めました。また、リクルートという会社自体が起業を後押しするような雰囲気や制度を持つ会社だったことも大きいと思います。

確かに自分で言うと何ですが、営業としてはそれなりに成績をあげていましたので、そのまま会社に残るという選択肢もあったと思います。ただ、時代が移り行く中で、営業が中心の時代からマーケターやIT領域の業務キャリアで育った人材中心の時代へ、リクルート自体が変わりつつあることも感じていました。それも起業へ踏み出す動機になりました。

「名入れのカレンダー」で成功

株式会社レスタス

そして起業された。

大脇 退職したのは2009年。2008年にリーマン・ショック直後で、その余波で非常に厳しい時期でした。この時期に起業し、成功できれば本物だ、と考えていました。ただ、そのためには闇雲に起業するのではなく、確かなビジョン、モデル、そうしたものがないとだめだとは先ほど話した成功した企業経営者を見ていて痛感していました。また、私自身は営業の自信がありますが、優れた営業マンを常に確保し、育てていくということの難しさもよく理解していました。営業マン採用に再現性はないと考えていました。小さくもビジネスモデル、仕組みの強さで勝負しないとだめだ、と考えていました。営業がいなくても顧客の側から選んでくれるインバウンド集客が可能なモデル、事業です。

どんな事業を起こすのか、いろいろ考えました。靴磨き店の展開はどうだろうとか、割烹料理を立ち食いで提供するカジュアル割烹はどうだろうとか、そこはリクルートにいましたので、その人脈やノウハウで、単に思いつきだけで終わることなく、簡易なマーケティングリサーチも細やかに行いました。

名入りカレンダー
レスタスが飛躍するきっかけとなった名入りカレンダー

年末に取引先や顧客に配る名入れのカレンダーでいこうと考えたのは、それがとてもニッチな市場で、ここにEコマースに特化して参入すれば勝算があると考えたからです。また、市場規模も名入れカレンダーだけで700億円から800億円の市場があり、ペーパーレスなインターネット市場でなら高い成長の余地がある市場であることも決め手でした。カレンダーだけではなく、オーダー・名入れでタオルやうちわなど販促商材は広がりますし、小ロットにも対応すれば個人のギフト市場にもその幅を広げていくことができます。

ただ、とりあえずは一点突破、カレンダーから展開していこうと考えました。その狙いはあたり、事業は軌道に乗りました。2019年には第二創業期を意識し社名をレスタスに変更しました。スタートアップでは考えられないような優秀な人材も集まってくれました。

ご両親などリクルートからの転身、起業をどう受け止められたのでしょうか。

大脇 両親は、「おまえはいつか商売人になると思っていた」と、起業を応援してくれました。その頃は一人暮らしだったのですが、実家に戻ることを勧め、お弁当も作ってくれるほど応援してくれました。兄も応援してくれています。現在は海外の大学で日本語の教師をしていますが、家族、親戚一同、私には大阪の商売人の血のようなものを感じていたのかも知れません。

起業したメンバーが相互研鑽し合い、経営者としての成長を図ろうとする秀吉会という集まりの幹事をしています。スタートアップは東京に「人」、「金」、「情報」が圧倒的に集約されていますが、視野を広げれば大阪は世界有数の大都市で、世界と十分戦えるインフラを備えています。また優秀な関西出身者が東京で多く活躍しており、面白い会社があれば、戻ってきてくれます。数年前と比べて情報もお金も地域を問わず調達できる環境が揃いつつありますので、秀吉会メンバーや私自身が大阪を、関西を引っ張って行く気概を持っていきたいと考えています。

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