ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第6回は、大阪・堀江でアパレルの専門商社を起業し、現在は「洋服のお直し」とカフェを融合した店舗の運営も行う、ホープインターナショナルワークス株式会社の髙村三礼さんにお話を聞きました。
髙村 三礼さん
ホープインターナショナルワークス株式会社 代表取締役
1975年神奈川県生まれ。神奈川のほぼ中央に位置する伊勢原市に育つ。1999年神奈川大学卒業。120年の歴史を持つ繊維商社に入社。メンズスーツの部署に配属され、商社マンとしてのノウハウを習得。百貨店担当として現在ではよくある「2着でスーツを販売するキャンペーン」を企画した一人。中国の縫製工場や量販店、アパレルブランドと仕事を深めつつあった入社5年目に繊維商社が民事再生法を申請、再建を担ったファンドと事業再生に取り組んだ後、リーマン・ショックの傷深い2010年6月、ホープインターナショナルワークス創業。「現代のお直し事業」への展開はメディアにも大きく取り上げられた、業界でも注目を集める若手起業家。
ホープインターナショナルワークス株式会社
2010年6月2日創業のソーイングファクトリー商社。アパレル、百貨店、セレクトショップのオリジナルブランドなどのOEM/ODM生産や雑貨の輸入代行を請負う。顧客の作りたい洋服を、ニーズに合わせた品質で、デザイン提案/生産/技術管理/品質管理/貿易/検品まで一手に引き受け創業以来成長を続けている。オフィス内にソーイングラボと呼ばれる縫製やサンプル製作を行う「研究施設・試作工場」を持つことで、アパレル企業と工場の間に入り両者を効率的に繋ぐだけの商社から、一歩進んだ「技術力を持った商社」として差別化を図る。「洋服は、人を笑顔にする力がある。」を掲げ、洋服好きが集う洋服の会社を標榜。2016年には新たにSDGsの観点から、それぞれの家庭に眠る古着に新しいデザインで新しい生命を吹き込む「次世代の新しいお直し屋」リデザイン&カフェを、東京、大阪などに4店起ち上げた。
洋服が好きで、貿易業を志した野球少年
最初にお名前、三礼の由来について教えてください。
髙村 なかなかすぐに読めないですよね。三礼と書いてミレイと読みます。子供の頃は画家のミレーのミレイだよ、と友達に良く言っていました。実際、名前の由来の一つはそのミレーだったようです。「落穂拾い」などで有名なフランスのミレーです。また、三国志で劉備玄徳が諸葛亮孔明を軍師として呼ぶのに三度、礼を以て彼を尋ねたという、これも有名な「三顧の礼」それも由来だと両親からは聞かされていました。
私は男兄弟で、三男坊でした。それで、三の字を名前に付けたいと両親が考えたようです。ただ、三は、ゾウだったりあまりきれいな響きの音ではないので、これからの国際化時代にどうだろう、という事で、外国人にもきれいに聞こえる音ということで、ミレイになったようです。では、長男は一が付くのか、次男は二が付くのか、と思いますよね。ところが、全くそうではなくて、長男は弘和、次男は健吾という名前です。え、という感じですよね。
子供の頃は、あまり好きな名前ではなかったですし、響きだけだと女性の名前に間違えられることもあって、現在でも女性向けのDMとか届くのですが、大人になって仕事を始めると、名前から記憶してもらえたり、経営者の仲間からも礼ちゃんと親しみを込めて呼んでもらえたりして、それはそれで良い名前かな、と感じています。
ご両親の想いがとても籠った名前なのですね。その名前を背負っての少年時代ですが、どのような少年だったのでしょうか。
髙村 神奈川県に育ったのですが、典型的な野球少年でした。小学校から、中学、高校までとにかく野球が好きで、野球に打ち込んでいました。ポジションはサードでした。足も速くて、1番2番、上位打線で攻撃の切り込み隊長のような役割の選手でした。本当はプロ野球選手になりたいというくらい野球に打ち込んでいたのですが、体格的なものもあり、残念ながら高校までの野球でした。
私も息子がずっと野球部だったということで、主観も入ってしまうのですが、現在起業されているファッションの仕事と野球少年とが、なかなか結び付かないのですが、ファッションとの結びつきや就職に繊維商社を選ばれる経緯など教えてください。
髙村 確かに坊主頭と洋服となかなか結び付かないですよね。ただ、私は先ほども触れたように少し年齢の離れた二人の兄がいましたので、兄の影響もあって、洋服は昔から好きでした。伊勢原市ですと、中学では休日に厚木や町田、高校にもなれば渋谷に東横線で友達と出かける文化なのですが、渋谷のファッションなどには影響を受けていたと思います。ビームスさんやユナイテッドアローズさんがまだ1~2店舗といった時代でした。
先ほど言ったように、野球漬けの生活で勉強は二の次でしたので、現役合格は難しく、一浪しました。両親が国際化時代を見据えて付けてくれた名前もあってなのか、貿易に興味があり、翌年、貿易学科のある神奈川大学に入学しました。高校までの野球漬けの反動か、大学1年、2年は遊ぶ方が中心でしたが、とにかく貿易の仕事がしたいと思っていました。いつの頃からか野球選手になりたいという夢が、自分で起業して世界を飛び回りたい、という夢に変わっていました。その夢を実現したいと思い、3年からは勉強にも打ち込みました。貿易マーケティングのゼミと、興味のあったメディア心理学のゼミ、二つのゼミに入り、卒業論文も二つ書いたほどでした。貿易マーケティングのゼミの寄せ書きに、15年後には起業します、と書いたものです。
就職は、起業の夢、貿易をしたいという夢を果たすため商社を目指しました。ありがたいことに何社か規模も大きい商社の内定を戴きましたが、その中で120年の長い歴史を持つ繊維商社を選びました。洋服が好きだったので、洋服にも貿易にも携われると考えたからです。
生産現場を知り、縫製技術を理解する商社マン
念願の商社、そこで取り組まれたことや起業に至る経緯など教えてください。
髙村 繊維商社に入り、さあ、働くぞ、と意気込んでいたのですが、最初の配属は当時日本橋三越前にあった本社で貿易部、バックオフィス業務でした。営業の前線に行きたいと人事に面接のたびに伝えたこともあって、9か月目に営業に出ることができました。ただ、勤務地は子供の頃から慣れ親しんだ関東ではなく、大阪、淀屋橋の大阪支店でした。そこで、メンズ輸入製品、スーツを扱う部署に配属となりました。
中国の生産基地とロードショップ型の量販店を繋ぐ仕事でした。ファッション性という意味では正直に物足りない部分もありましたし、当時、私のいた商社は、国内のスーツの10%近いシェア、100万着の扱いをしていましたので、工業製品に近い感覚で、例えばいかに不良品を出さないか、など、現在にして思えば、とても勉強になった部署でした。とても勢いのある、伸びている部署で、貿易に関する実務や中国など生産工場との交渉、顧客との交渉など、アパレルに係る商社マンとしての基礎を学びました。
商社では最初の3年が先輩についての見習いで、4年目から独り立ちという感じでしたが、私は三陽商会さんやダーバンさんなどにも攻勢をかけ、扱いを増やす動きをしていました。
そんな時、残念ながらその商社は、ホテル事業など不動産関連事業の行き詰まりなどもあって、民事再生でファンドの支援で再建を目指すことになったのです。400人いた社員は40人になりました。
私は稼ぎ頭のような部署のメンバーだったこともあって、最年少で再建に携わることになりました。これも当時は大変でしたが、後で考えるととても良い経験になりました。社員が減ったことで、社内には専門家もいなくなりました。今までは営業の後ろの部隊がやっていてくれたことも自分でしなくてはいけない、そんな状況になりました。縫製の細かな部分や仕様書についても、自分で扱う。CADも扱えるようになりましたし、起業の際のヒントにも繋がるのですが、技術に強い商社マンに変わっていきました。多くの商社マンは結局、顧客と工場の間に入って伝言役となるのですが、技術が付いてくることで、これは工場が面倒くさくて言っていることなのかどうか、素材や縫製作業の工夫で受け入れられる条件は何か、など分かってくるのです。技術に強い商社、その強みが分かり、これは起業できるぞ、と感じました。
また、別の側面では、これまでの商売がいかにその繊維商社の看板に頼ったものだったのか、それも分かりました。これまでなら取れたはずの仕事が取れないのです。そこを乗り越えて、会社ではなく髙村個人の信用で仕事が取れるようになって、ますます起業への自信が深まりました。
起業は昔からの夢でしたし、再建チームに残ってからも、起業の自信が深まってからは、毎年今年辞めたいと上司に申請していました。そこで引き留められ、もう1年、またもう1年。体育会気質ということもあると思いますが、引き留められて残って、そこで仕事の手を抜く、ということはできませんでした。懸命に働いていたと思います。
そのうち、リーマン・ショックがやってきました。100年に1度、と言われた大不況です。私は、これはここで、このタイミングをきっかけにできなければ結局起業などできない、と腹を括りました。どん底から始められるし、このタイミングで独立する奴はいない、ライバルが少ないとも思ったのです。
洋服のリデザインで持続可能な世界に貢献
そして起業された。
髙村 まだ、リーマンショックの傷の残る2010年6月、起業しました。繊維商社で後輩だったメンバーが一人、付いてきてくれました。資金は貯金と、私を信用してくれる取引先がお金を貸してくれました。技術の分かる商社であろう、と差別化のポイントは見えていましたし、ファッションの仕事をしていても、ファッションに興味のない商社マンも多く見ましたので、好きこそものの上手なれ、ではありませんが、メンバーには洋服好きを集めよう、とそれも決めていました。
最初から順風とはいかず、いきなり逆風にさらされたのは、起業のタイミングが上海万博に重なり、中国の縫製工場が手一杯になり、納期が大幅に遅れたからです。最初の半年は最悪でした。ただ、そこで挫けず、もう一回初めから顧客開拓に励みました。幸い、前職時代から懇意にしていた生地屋さんとか縫製屋さんが顧客を紹介してくれ、取引先を少しずつ増やしていきました。
ただ、これも最初の繊維商社での経験のおかげだと思いますが、サラリーマン時代に扱っていた金額と比べれば、まだまだだ、と思うことができましたし、その金額については達成できるという自信がありました。前職と違ったのは、スーツからカジュアルへと仕事を広げられたことです。以前なら受けられない仕事も受けられましたし、好きな洋服を扱う世界にさらに深く会社を進めていきました。
最近では洋服のお直しの領域にも進まれています。
髙村 会社が軌道に乗っていく中で、さらに会社を発展させるにはどうすればいいか、を考えていました。OEM/ODMから自分たちのブランドを作ってセレクトショップを作って、というのも確かに一つの方向ですが、それをすると、現在の顧客と競合してしまう問題もあります。
そんな中、たまたま地球環境問題について書かれた本を読んでいて、これからはモノを生産しては捨てるという時代から、リサイクルの時代、資源の有効活用の時代に変わっていかなければいけない、そう感じたのです。SDGsがまさに21世紀の課題ですが、私も二人の子供を持つ父親としても、これからを生きる世代、これからの人たちに健全な地球環境を残していく責務がある。
洋服の世界でのリサイクルというと古着の流通という一つの回答はある、ただ、もう一つの回答として「お直し」、それぞれの家庭のクローゼットやタンスなどに眠っていて、やがてはゴミとして捨てられる洋服を、単純にすそ幅を直す、袖丈を直す、というのではなく、現在の流行やセンスで新しくデザインし、作り変えて、現在、着られる服として新しい生命を吹き込んでいく、そんな世界がある、そう考えたのです。そして、洋服が作り変えられる場所も、商店街のはずれのお直しの店という感覚ではなく、洒落たカフェでガラス張りの職人の作業空間を、コーヒーを飲みながら楽しんでもらえる空間にしたらどうだろう、そう考えたのです。
それが2016年に展開を始めたサロン・ドゥ・リデザイン・クローゼット・ドット・ネット(通称リデクロ、SDRC)です。よくテレビで住宅のビフォー・アフターの番組がありますよね。その洋服版といった感じで、本当に消費してもらいたいのは、そこに横たわる物語、父親の形見の背広が現在のテイストを持つ息子のジャケットに変わる、そんな物語なのかも知れません。そこに価値を見出してくれる方がお客さんになるのだと思います。おかげさまで、新型コロナ感染症の影響はありますが、ここまではマスコミにも多く取り上げてもらい順調に来ています。
新型コロナ感染症については、やはり影響はあります。ただ、どんな時代にも洋服には人を笑顔にさせる力がある、と私は考えています。最近、デジタルマーケティングに関するコンサルなどをされているVogaroと資本業務提携をしました。Vogaroは「リデザインを文化にする」「10億着の廃棄衣料をゼロにする」という当社の理念に共鳴してくれています。ネット社会の中でも当社の理念や仕事が多くの共感者を持てれば、さらに業務は広がると考えています。