ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第14回は、歯科医でありながらドローンの運用や開発を手がける企業を立ち上げた、株式会社エアロジーラボの谷紳一社長にお話を聞きました。

谷 紳一さん
株式会社エアロジーラボ 代表取締役

谷社長

1958年大阪府生まれ。政財界の人材や手塚治虫など文化人の人材を数多く輩出している公立名門校、北野高校を経て、大阪大学歯学部歯学科を卒業。1989年から1994年まで母校の研究室に研究員兼歯科医として勤務後、1994年に大阪市平野区にたに歯科医院を設立。大学では軽音楽部でドラムを担当。開業後も歯科医の傍らドラマー、パーカッショニストとして活躍した。
また、趣味で始めたラジコンヘリコプターでの空撮からドイツの文献などを手掛かりにドローンを自作、性能の高さなどで注目を集め、2012年エアロジーラボを起業。
来たる2025年大阪万博では水素を動力源とした有人ドローンのデモフライトの準備委員会、委員長に就任。歯科医としても3つの歯科医院を束ねる医療法人慈恩会の理事として週1ベースで後進の指導にあたりながら、我が国のドローンビジネスの先端を走る注目の起業家。

株式会社エアロジーラボホームページ

「ドローンの設計・製作からシステム構築までをトータルにプロデュースするドローンのソリューション・プロバイダー」。2012年10月、ドローンによる空中撮影をメインとして谷社長が起業。その後、関西テレビを始め多くの企業の出資を受け、現在ではドローンの開発、設計、製造、販売や各種実験、開発の受託、引き続き空中撮影などドローンに関連する様々な事業を展開する注目企業。ドローンは、空中撮影だけでなく、施設の保守・点検や災害の救助、航空測量や物資の運搬など、これからの世界を牽引する可能性に満ちた製品として幅広く認知されているが、中国製など多く利用されているバッテリー型の限界を超える(同じ搭載量であれば実証実験では約5倍の飛行距離を実現など)ハイブリッド型ドローンの設計・開発に強みを持つ。

「この子はやんちゃだけど、手をかけたら伸びる」

この連載では多くの起業家の方にお会いしてきましたが、現役の歯科医で、かつ全く違う領域の起業家でもある、そんな方には初めてお会いしました。いろいろお聞きしたいことがあるのですが、最初にどんな少年時代を過ごされたのか、生い立ちのようなものからお聞かせいただけませんでしょうか。失礼ですが、ご実家も歯科医院で家業を継がれた感じでしょうか?

 いえ、実家が歯科医院だった訳ではありません。父は普通のサラリーマンでした。生まれは大阪、一人っ子です。1958年に生まれたのですが、母は戦争で一家を支える男たちを2人失い、戦後、大袈裟に言えば没落したという想いを抱えた人でした。その分、私に託した思いも大きかったのか教育熱心な母親でした。現在では核家族で教育にとても熱心な母親は珍しくないと思いますが、一世代か二世代早く、そんな家庭に育った感じです。

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幼稚園もカトリックの幼稚園に通いました。教会、シスター、そんな世界ですね。厳しい躾けの幼稚園でした。私は現在でもそうなのですが、やんちゃな性分で、よくどこかに閉じ込められてお祈りをさせられたのを思い出します。弁当も一人で食べていた記憶もあります。ただ、しっかりと子供を観察して見守ってくれてもいて、「この子はやんちゃなガキ大将だけど、頭はとてもいいので、とにかく勉強をさせなさい」と母親が言われたようです。それで、当時は珍しかったのですが、隣りの学区の公立ですが名門と言われていた梅田の曽根崎小学校に通うことになりました。越境入学でした。

そこでも小学校1年の夏休み前ですか、父兄懇談会があって、その帰りに母親が山ほど本を買って帰ってきたのを覚えています。「この子はやんちゃだけど、手をかけたら伸びる」、先生にそう言われたというのです。そこからは大変でした。普通、小学生は学校が苦痛で家に帰ったら、さあ、遊べるぞ、と気持ちが明るくなりますよね。私は反対でした。家に帰ると山ほどの参考書や問題集、またスイミングクラブなどの習い事という感じで、家に帰るとしんどい、逆に学校が息抜きでした。それもあってか、やんちゃさは変わらずで、友達もやんちゃな子ばかりでしたね。
小学生のうちは、学級委員はだいたい勉強のできる子がなるものですが、私は一番勉強ができるのに一度も学級委員になったことはありませんでした。先生にもきつくあたられた記憶がありますね。確信犯で一番たちが悪いと思われていたようです。

中学は、そんな環境でしたから灘中学を受験しましたが残念ながら落ちて公立の中学校に入りました。そこでの経験は現在にも生きていますね。OBには国立大学の教授などを輩出している曽根崎小学校とは異なり、そこには本当に性根の座ったやんちゃな連中も通っていました。そこで私はそんな連中から目を付けられました。ちょっと服装が粋がっていたりしても対象になる訳です。あいつ、勉強もできるのに粋がっている、生意気だ、という感じですね。もちろん、やんちゃな感じも変わっていませんので、余計に目を付けられる訳です。
まあ、いろいろありましたが、良い経験でした。人間の世の中は、最終的には暴力で成り立つところがあると思うのですが、それに怯まなくなった、胆力が身に付いた、そんな経験でしたね。それは実際に歯科医院を開業してからも、そして現在でも役に立っている気がします。

エアロジーラボ
エアロジーラボを設立した現在も、公立中学校での経験が生きているという

「偉い人になってほしい」という母の願い

高校は北野高校に進まれたのですね。文武両道のイメージの強い学校だと思うのですが、どうでしたか。また、歯学部を選ばれたのはどうしてでしょう?

トラリピインタビュー

 北野高校に入って最初の試験が衝撃でした。現在はどうなのか分かりませんが、当時は成績優秀者を100番まで貼り出していたのですが、そこに私の名前はなかったのです。正直、それまでは勉強しなくてもいつも一番だったのですが、その私が450人くらいいる生徒の中で、100番にも入らない。また、運動にしても基本的に私は何でもできたのですが、北野の生徒は運動も優れた生徒が多くいました。カルチャーショックでしたね。初めて勉強しないとだめになると感じました。もっとも長くは続かず、途中で折れた感じでしたが。

文武両道と言えば、そこで剣道部に入りました。ご存じかどうか、恥ずかしい話ですが、森田健作の『おれは男だ!』に憧れてもいたからです。
北野高校は自由でいい学校でしたね。現在、エアロジーラボにはその時の仲間が60歳を超えて、それぞれの人生経験を経て力を貸してくれています。

歯学部をなぜ選んだのか、ですが、それもあまり確信的なものではありません。母親の私への願いは「偉い人になってほしい」というものでした。偉い人、って何でしょうね。母のその願いを知っていたので、子供の頃から「将来、何になりたい」と聞かれると、その時々の偉い人を答えていました。考古学者、総理大臣、レーサー、パイロット、その中には、やはりお医者さんもあった訳です。近所で先生と呼ばれて尊敬される職業ですからね。親に喜んでもらいたい気持ちはやはりありましたし、理系だったこともあります。ただ、率直に言えば、偏差値も大きな要素だったと思います。工作が昔から好きで工学部という選択肢もあったのですが、自分の偏差値から絞っていって偏差値の高い医学部、歯学部、最終的に大阪大学の歯学部を選んだ形です。

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