ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第17回は、マンションのオーナーを対象にインターネット回線やIoTインターフォンなどを販売する、株式会社ブロードエンタープライズの中西良祐社長にお話をうかがいました。

中西 良祐さん
株式会社ブロードエンタープライズ 代表取締役社長

中西良祐社長

1974年9月21日神戸市灘区生まれ。比較的裕福な家庭に育つが小学5年生の「ある日突然」に親が事業に失敗、一家離散を経験、母方の祖父母のもとで育つ。甲南大学法学部卒業。英語教材などの販売会社、通信会社を経て2000年12月にブロードエンタープライズを起業。2003年にはNTTの「Bフレッツ」、2005年には自社商品「B-CUBIC」を販売。家族経営を標榜し、経営理念として「CS」「ES」「社会貢献」を掲げる。2014年には地域・社会に貢献した企業に贈られる「宗次賞」を受賞。

株式会社ブロードエンタープライズホームページ

2000年12月創業。マンション向け高速インターネット「B-CUBIC」、IoTインターフォンシステム「BRO-ROCK」を販売。2021年12月16日東証マザーズに上場。「B-CUBIC」は初期費用ゼロで導入できる全戸一括型のサービスとして多くのマンションオーナーに支持されている。「BRO-ROCK」はネット回線を利用しスマートフォンでも対応可能なインターフォンシステムで、外出時や出張時にも訪問者と応対可能。賃貸マンションの付加価値を上げるインフラとして注目を集めている。

小学5年で一家離散。祖父母のもとで育つ

お聞きしにくい話ですが、小学生の頃一家離散の経験をされていると伺っています。それが標榜されている「家族経営」の原点にあるのだと感じるのですが、その経験も含めどんな少年時代を過ごされたのか、お聞かせ願えないでしょうか。

中西 生まれは神戸市灘区になります。両親共働きでしたが、父はある社団法人で編集長として働いていました。母も保母さんから幼稚園の園長にと、二人ともエリートというか一定の地位にあって、日曜日には家族で外食に行って、というような中流の、それなりに裕福な家庭だったと思います。私は3人兄弟の末っ子で、5歳年上の姉と3歳年上の兄、5人家族でした。

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そんな幸せな家族でしたが、忘れもしません、小学校5年の時に両親が離婚し、一家離散となりました。それは園長だった母が事業意欲旺盛で保険の代理店から始まり、様々な事業を手掛けていたのですが、事業が暗礁に乗り上げ、父もその事業のために借金をしていたなど、複雑な事情があっての事でした。

本当に「ある日突然」という感じでした。父は社団法人に出勤できなくなり、母は家を出ました。高校生だった姉は学校を中退し働き始めました。私たち兄弟は親戚を回るなかで、最後は隣りに住んでいた母方の祖父母に家に落ち着くのですが、兄は少しやんちゃだったこともあって、すぐに高校から和歌山の全寮制の高校に進学しましたので、中学から私は祖父母の家で、3人で暮らすことになったのです。

祖父母の家ですが、昔はその家の一階で祖母が小料理屋を営んでいたこともあったのですが、その頃はもう年金暮らしでした。そのため余裕はない暮らしでしたが、祖父母は優しい人たちで、私に向き合ってくれました。今でも感謝しています。裕福とはとても言えませんでしたが、不満などなかったです。ただ、正直、未来に向かっての希望は持てませんでした。

兄は活発な性質でしたが、私はそうでもなく、正直スポーツも得意でなかったので、学校が終わると友達の家でなんとなく時間を過ごす、そんな学生時代でしたね。以前にも高校時代のエピソードなど聞かれたことがありますが、全く思い出せません。

トラリピインタビュー

大学でイベントサークルを起ち上げ、収入を得る

大変な経験をされたのですね。それが大学生になって変わっていかれたのでしょうか。甲南大学に進まれた訳ですが、甲南というイメージも、失礼な言い方ですが、少しギャップを感じますが。

中西 本当は高校を卒業したらそのまま働くつもりでした。進学指導でもそのような気持ちを伝えて、地元の家電量販店への就職がほぼ決まっていました。これから面接だというときに、家に来た姉に「大学だけは出て欲しい」と5時間近く説得されたのです。受験勉強もしておらず、また、たくさんの大学を受ける受験料もなかったので現役では1校も受験せず、浪人して、地元で家から原付バイクで通える甲南大学に進みました。

確かに甲南というとお坊ちゃんのイメージが強いと思いますが、それは1割にも満たない内部進学者の話で、9割は普通の家の普通の学生が学ぶ大学です。入学金は離れて暮らしていた母が払ってくれました。

大学生になって、近畿大学に入った高校からの友人に誘われて大学横断的なサークルに入ろうと、土日、様々なサークルのイベントを覗いたのですが、これなら自分たちでもできるだろう、とその友人とイベントサークルを起ち上げました。その友人はイケイケなのですが、自分が率先して前に出るタイプではなかったので、自然に私が前に出てサークルを運営していきました。クラブを借り切って1000人規模の大きなダンスパーティを開いたり、夏は海、冬はスキーという感じです。イベントの収入やチラシなどの広告収入もあって、お小遣いも潤沢でした。

神戸で被災、友人の誘いでバーを開業

現在に繋がる商才が花開いた感じでしょうか。その後バーの経営もされたとお聞きしています。

中西 大学1回生の冬、1995年1月17日神戸震災がありました。神戸は大変な被害にあったのですが、幼稚園からの幼馴染から次の年の冬「一緒にバーをやらないか」と声を掛けられたのです。友人のお母さんがスナックをしていたのですが、その建物が壊れ、建て替えるときにそのビルのオーナーがおばさんにまた店を開けないかと話を持ち込んだのです。ただ、もうおばさんは自分が店を切り盛りするという気がなく、友達に何かやってみるか、と話をした訳です。友達は中学を卒業した後は建設作業員をしていました。

将来について深く考えていたのではありませんが、その頃は就職氷河期でしたし、何か自分で仕事を興すのもいいかな、と考えてもいました。で、友人の話に一度乗ってみようと思ったのです。サークルは後輩に譲る形で引退しました。

店の開業資金はおばさんが出してくれました。もちろん、返済計画をしっかり立てて、それまでカクテルの作り方なども知らないので、お金はもらわなくていいから、と三宮のバーで接客やカクテルの作り方など3カ月働いて学びました。

店はそれなりに順調に軌道に乗りました。毎日がとても楽しかったのを覚えています。客層は自分たちより少し年上のサラリーマンや、そのまま大学の繋がりのコンパのお客さんもいましたね。お客さん同士を繋げるキューピットのようなこともしました。大学を卒業しても結局しばらくはその店の経営に携わっていました。

ただ、2年目あたりになって、これでいいのか、と考え始めました。いい言い方にはなりませんが、飽きた部分もあったかもしれません。こうした店を展開していくのであれば、それはそれで面白いのですが、残念ながら強みもなく、いずれ限界が来るという気もしていました。それで、大学を卒業した年の9月21日、ちょうど誕生日でしたが、友達に一度スーツを着て勝負してみると言って店を辞めたのです。

トップ営業マンに上り詰め、26歳で独立

最初に入ったのはブラック企業だったそうですね。

中西 先ほども話しましたが、私たちが大学を卒業した頃は就職氷河期でした。その上、新卒でもないのですから、とりあえず就職情報誌を見て、英語やパソコン教材などを扱う会社に就職しました。入ってみると、固定給ではなく完全フルコミッションの会社でした。同時期に入った仲間もほとんどが辞めてしまう、休日もまともにないような会社でしたね。最初の2か月はまったく契約が取れず苦しみましたが、毎日200件も300件も電話をかける毎日の中で、少しずつ成果が出てきました。数か月経つと1000人以上の営業マンのトップ10に入るような成績を上げられるようになり、課長代理には最短で昇進もしました。ただ、次の課長になるまでには最短でも6年はかかると分かり、結果を出しても昇格できないことに納得いかずその会社を退職し、2社目でNTTの代理店をしている会社に転職したのです。

2社目のその会社での経験が現在のブロードエンタープライズに繋がるのですね。

中西 そうですね。2社目の会社はNTTの代理店でした。そこでは1社目の経験もあってか、1か月も経たずにトップ営業マンに上り詰めました。通信の世界であればやっていけるのではないか、と感じましたね。携帯電話やインターネットが普及していくスピードは物凄く、業界全体が活気づいていました。

その会社では「名古屋に支店を出すから支店長として行ってくれ」と言われていましたが、どうしても社長の考え方に納得できず、独立してみようか、と思ったのです。ちょうどNTTがマイラインという新しいサービスを出すという話があって、その代理店として3カ月後には当時の部下を連れてブロードエンタープライズを起業しました。12月、冬でしたね。私は26歳でした。

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