テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会(放作協)がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
9月18日に創立64年を迎えた日本放送作家協会。
連載第142回は、2時間サスペンス復活を願う末安正子さん。
「10万円ぐらいのために、人、殺さないでしょ?」
2時間サスペンスの打ち合わせ中、大手制作会社のプロデューサーさんに鼻で笑われたことがあった。目先の金欲しさに人殺しをした男への復讐話として考えた案だった。
「さすがボンボン育ちは違うな。ギリギリの生活、味わったことないんだ」
そう腹の中で思ったものの、悲しいかな当時の私は戦う勇気はなく「そうですかねぇ……」とプロットに大きな×印を付けることしか出来なかった。
高校卒業後18歳で信用金庫の窓口係として働き始めた。同僚たちの前で羽振りのいいフリをして、お客様の預金を使い込みクビになった人を何人も見てきた。お客様でも、家族間や会社がらみの金銭トラブルを信金に持ち込み騒ぎ立てる人もいた。
闇サイトで数万円で犯罪を請け負う人、数万円の金銭トラブルを発端に殺人に発展する事件もあるなかで「10万円ぐらい」と鼻で笑う……そんな価値観の人にはなりたくないな、とも思った。
その打ち合わせの数年後、各局で2時間サスペンスの幕が次々と閉じられていき――私は、脚本の生業として多くを占めていた2時間サスペンス全滅と、自身の実力のなさもあって、仕事が激減した。
「きゃくほん貯金」
信用金庫で「貯金しません?」とお客様に定期や積立を勧めていながら、自分自身のお金の知識に疎かった。そのことに気づいたのは信金を辞めてからだった。
あと1カ月待って辞めていればボーナスもらえたのに……有給が残っていたらしいのに……会社を辞めたら社会保険も自分で払わなくてはならないのに……無知にも程があった。
結局ダブルワークをしながら脚本の勉強を続け、やっと脚本家デビュー。
脚本家を目指してから10数年後のことだった。
そしてデビューして10数年後、脚本の仕事が激減――でもなぜか、何か妙な具合に帳尻があっている気がした。
そうだ、そうだよ、ワタシ、学校のお勉強できなかったんだよな。お勉強もできないし、生きていかなきゃならないから18歳から社会に出て仕事してたんだよな。同級生が大学や専門学校で青春満喫しているのを尻目に、コンチクショー精神で必死に働いていたんだよな。でも、そのお陰で脚本家になれたんだよな。たくさんのアイデアが生まれて人間が描けたのも、ギョーカイとは全く関係ないフツーの場所で働いた経験があったからだよな。
だったら――脚本家として食べて行けなくなったのなら、イチから出直してフツーに働こう。どうせなら、今まで経験したことのない仕事を。
「ガテン系」そこはまさにカルチャーショックだった。
逆差別、仕事格差、職業カースト。様々な国籍の人、その日?その月?暮らし的な生活層の人、国立大学出身だの昔は1千万円以上稼いでいただのと、言うことはデカいが仕事が出来ない人、驚くほどの自己中な思考回路の人たちもいて、お金のトラブルもよく見聞きした。
一方で、私より何倍もキツい作業をしているのに「怪我するやろ」と手伝ってくれる強面の兄ちゃん、自国の家族に仕送りをして大変なのに「たべないとカラダワルイヨ」とお菓子をくれる外国のママちゃんたち。お金を稼ぐために必死に働く中で、明るさや優しさに溢れる人たちにも出会えた。
職業、生活層、生い立ち、国籍に関係なく、お金を通して人間性が出るものだとつくづく感じた。
生きるためには働いてお金を稼がなくてはならない――そのことで、これまで以上の脚本の糧「きゃくほん貯金」になっている。
なんだ、一石二鳥じゃないか。
頑張れガンバレ。
そう言い聞かせて、一歩一歩すすんでいる途中だ。
次回は岩崎訓さんへ、バトンタッチ!
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。