テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会(放作協)がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
連載第170回は、「秘密のケンミンSHOW極」(読売テレビ)や「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」(テレビ朝日)など数多くのTV番組を手掛ける、放送作家のデーブ八坂さん。
名刺に書いたらウケそうだから“エンゼル荘”
僕が放送作家を始めたのは2006年。世間はトリノ五輪で荒川静香が見せたイナバウアーに歓喜し、ライブドアでホリエモンがフジテレビを乗っ取るんじゃないか?とソワソワしていた時に、放送作家デビューを果たしました。
今でこそ不自由のない生活していますが、始めたころは自動販売機の前を通ったらとりあえずお釣りに手を突っ込んで10円でもないかと確認するような毎日を過ごしていました。
今お金のない若者は「シェアハウス」の選択肢がありますが、僕の頃はそんなオシャレなライフスタイルはなく、まだ“貧乏=風呂なしアパート”の風習が残っていた時代です。当時とにかくお金がなかった僕は放送作家になることを決めると、適当に入った不動産屋で「家賃3万円以下で暮らせる部屋はないですか?」とギラギラした目で尋ねました。するとすぐに何件か物件が出てきましたが、その中に1つ家賃2万8000円、エンゼル荘という物件がありました。その名前を見た瞬間、「貧乏なのにエンゼル(天使)……名刺に書いてたらウケそうだし、覚えてもらえそうだな」という理由だけで内見もせず1発で決めたのです。
エンゼル荘に住んでみると、もちろんエンゼル(天使)のような住民もいなければ天国とは程遠いほぼ地獄のような環境でした。まず隣の部屋の住民がとにかくお風呂に入らないから臭くて、壁の隙間から家のない方、特有の獣臭が24時間鼻をついてきます。さらに壁も薄く、歯磨きの「おえっ」や「プスッ……」とすかしっ屁の音まで聞こえてくる始末です。
でも、ここで放送作家になることを決めた僕はまず貯金200万円を目指しアルバイトを始めます。昼は新宿ルミネのハワイアンレストランで1日100個オムライスを作り、夜は新宿NSビルの高級バーでおじさんがキャバ嬢を口説くのを横目に大皿に乗った一口で食べられるパスタをひたすら運ぶウエイター、シフトに入れなかった日は、日雇い労働で埼玉の奥地の工場で何が入ってるかわからない巨大ダンボールを運んだり、雑居ビルに入ってる小さいオフィスの椅子と机の位置を変える仕事をしたり、FNS歌謡祭の電球を8時間かけて1400個つけたりと365日休まず働きました。すると1年間で本当に200万円が貯まり無事、事務所の門をたたいて放送作家の見習いになれたのです。ただ本当の地獄はここからでした。
風呂なしアパートの代償
放送作家を名乗ったのはいいものの最初は特番のリサーチの仕事が数カ月に1本のみで朝から夕方まで国会図書館と大宅文庫(雑誌の図書館)で資料を探り、夜はエンゼル荘に戻って資料をパソコンでまとめる毎日。入ってくるギャラは3カ月に1回10万円程度、月収にすれば3万円ほどです。そんな生活をしてたら1年で200万円あった貯金も底をつきます。
そんな絶望の中、さらに追い打ちが。夜、寝ていると顔にピチャピチャと水がかかる感触があり、目覚めると天井から水がシャワーのように噴出していました。慌てて上半身を起こし周りを見ると布団を囲うように部屋が湖状態になっているのです。原因は2階の部屋のトイレの管が破れて漏れた水が真下の僕の部屋に降りそそいできたことでした。そして工事が終わるまで数日間マンガ喫茶で過ごしたらお金がなくなり、床に置いていた電子機器やマンガ本が全部使い物ものにならなくなりました。
しかし不幸はこれだけでは終わりません。その数週間後、寒いからと電気ストーブの横で寝ていたら掛け布団に火が燃え移ってしまい、目が覚めると部屋中煙で真っ白、足元にオレンジの炎だけが見える状態。慌てて布団を道路に放り投げて水をかけて火事になるところをギリギリで防げました。3分の1が燃えてなくなった掛け布団は、どう頑張っても右足が出てしまいますが、もちろん買い替えるお金もなくそれで冬を過ごしました。
そんな風呂なしアパート生活で起きたお話は僕の中ですべてネタとなり、名刺を見てエンゼル荘に食いついてきた業界人にはもれなく付録のように話していると、顔を覚えてもらい、次第に仕事につながっていきました。
あれから18年。今、僕は世田谷区に一軒家をかまえ、妻と子どもというエンゼル(天使)2人と暮らす幸せな生活ができています。
風呂なしアパート最後の世代、振り返ればいい世代に生きられたと思っています。
次回はカツオさんへ、バトンタッチ!
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。