ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第7回は、女性のためのオンライン診察サービス『スマルナ』などを通じて遠隔医療を提供する、ネクストイノベーション株式会社の石井健一さんにお話を聞きました。

石井健一氏

石井 健一さん
ネクストイノベーション株式会社 代表取締役

1978年埼玉県加須市生まれ。獨協埼玉高校を経て帝京大学薬学部を卒業。アストラゼネカ、ノバルティスファーマでMR(医療情報担当者)として活躍。ノバルティスファーマでは望んで臓器移植プロジェクトに携わり、我が国の臓器移植をリードする地域である大阪で日本の医療そのものが抱える問題や矛盾に直面。もともと起業意欲を持っていたこともあり、社会課題を解決する起業の道筋を模索。薬剤師や医師の仲間と勉強会など持ちながら2013年関西学院大学専門職大学院経営戦略研究科を卒業。同年、医療機関向けに経営コンサルを行う株式会社メディノベーションラボを起業。2015年8月、遠隔診療に対する新しい厚生労働省の通達を受け、志を同じくする仲間とネクストイノベーション株式会社を起業。起業後、何度かの資金調達にも成功、ベンチャーキャピタリストからの評価も高い注目の起業家。

ネクストイノベーション株式会社ホームページ
2015年8月に出された遠隔医療に関する厚生労働省の新しい通達を背景に、勉強会などを通じて繋がっていた薬剤師や医師らが石井氏を中心に2016年6月に起ち上げた注目のベンチャー企業。インターネットを用いた遠隔医療サービスの企画及び運営を通じ「世界中の医療空間と体験をRe▸design(サイテイギ)」し、「今ない未来をここから創る」ことを目指す。医療サービスとICTのチカラを組み合わせることで、患者サイドからはより継続性の高い受診、心理的・物理的距離を乗り越えた医療サービスの受益を可能にする一方で、医師サイドに対しても、本来より必要性の高い患者にFace to Faceの時間を割くことを可能にする。現在は女性特有の疾患や悩みに特化し、女性に寄り添うフェムテック系オンライン診察サービス『スマルナ』に注力。2018年6月のサービス開始以来すでに累計27万ダウンロードを達成するなど注目を集めている

下級生でも試合に出られるバレー部を選ぶ

最初にどんな少年だったのか、といったあたりからお話を伺いたいのですが。

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石井 生まれは埼玉県加須市になります。埼玉県の北東部、茨城県と隣接するような場所ですね。最近でこそ工業団地などもできて変わってきましたが、私が子供の頃は田畑が広がり、高校まで近くにコンビニもない場所でした。5代前まで遡れる家で、2代目にあたる先祖が土地を拡げたようです。農家でした。3代目が祖父になります。父は全農の職員、母とは職場結婚です。私は男3人兄弟の長男です。2つ下と8つ下の弟がいて、祖父母とあわせ大家族で育ちました。一番下の弟と年齢が離れていたこともあって、おばあちゃん子でしたね。健康的ないい家庭でした。祖父から言わせれば、おまえは昔から弁の立つ「生意気な子供」だった、そうです。

身近に農業がありましたが、私が中学3年の時に冷害があり、コメ農家がとても苦労するのを間近に見て、農家は重要な仕事なのに天候など不確定要素が大きくてリスクを負う割に大きな収益をあげにくい仕事なんだな、と強く思ったのを覚えています。

高校はその地域ですと祖父の母校でもある県立不動岡高校という学校が進学校として有名なのですが、私は単願で獨協埼玉高校に進みました。最短で勝てる領域に努力を集中するというのが、子供の頃からのポリシーなんです。例えばスポーツでも、小学校は野球でしたが、中学からはバレー部に移りました。野球部ではレギュラーになれるか分からないと思いましたし、なによりバレー部は一つ上の学年に先輩が2人しかいなかったので、ここでなら下級生からでも試合に出れる、レギュラーを取れると考えたからです。しかも最初はより確率高くレギュラーを狙えるセッターを志望しました。結局、上級生になってアタッカーになりましたが、狙いはあたりましたし、部活はとても楽しく過ごせました。

スポーツ歴に移ると、高校ではサッカー部に変わりました。サッカーは元々好きだったからです。最初はFWでしたが、途中からキーパーを志望しました。これもレギュラーが近いからです。私の1年上の代はサッカーが盛んな埼玉で、ベスト16まで勝ち上がる成績を残しました。ただ、私の代はそうでもなく、何かの試合で大差で負けた時に、見学に来ていた父兄が、キーパーのせいだ、というような言葉を吐いたのが耳に入って、やる気をなくしたのを覚えています。確かにそこで一本シュートを止められるキーパーは理想ですが、ボールをキープされる、そしてシュートを打たれるというのはチーム全体の課題なのにな、と思ったのです。で、勝てる戦いにこそ、全力を注ぎたいという例の性向から結局、部活は途中で辞めました。まあ、遊びたい気持ちもあったのだと思います。

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外資系製薬会社への就職を決めた「反骨心」

薬学部を選ばれたのでご家庭が医療関係でいらしたのかと思いました。なかなか個性的な少年でいらっしゃったと思いますが、なぜ薬学部だったのですか?また、外資系のMRを目指された理由など伺えますでしょうか。

石井健一氏
少年時代から「勝てる場所、勝てる方法を探す主義」だったと語る石井さん

石井 薬学部を選んだのは、現在となっては笑い話なのですが、当時お付き合いしていた方が、医学部を受験しようと考えていたからです。それなら私は薬学部かな、と考えたのです。それで、いつもの勝てる場所、勝てる方法を探すという主義で、科目の組み合わせでその頃得意だった化学を使える、しかも推薦を取りに行ける帝京の薬学部を選んだ訳です。

帝京の薬学部は当時、相模湖キャンパス(現・神奈川県相模原市)だったのですが、実質単科大学で薬学部は女性の比率が高いことから、野球もバレーもバスケも、限られた人数で廻さないと公式戦を維持できないという環境でした。ですので同好会ではなく大学の名前を背負って、部活としてスポーツができて楽しかったですね。

就職に外資系のMR(医療情報担当者)を目指したのは、これもやはりある種の反骨心からでした。薬学部に来る学生は、確かに実家がもともと薬局だとか医師だとか、私と違って背景に薬剤師を目指す必然性があって学部選択をします。だから逆に薬剤師の国家試験がゴールになってしまうんですよね。私はそれがどうも嫌でした。就職活動についても廻りはほとんどしていなかったのですが、だからこそ、就職しようと思いました。教授からは国内系の大手製薬会社などどうか、という話もあったのですが、世界的な薬のシェアを見れば、国内系ではなく強い製品力を持つ外資系がいいと考えたのです。

アストラゼネカを選んだのは、中学の時にバレー部を選んだのと似ているのですが、アストラゼネカは2001年に新卒採用を始めたばかりで、上がいない、上が空いている、と思ったからです。結局、私はその後でノバルティスに移り、また起業しますが、そのときの同期は現在ではアストラゼネカの良いポジションにいますので、考え方は間違っていなかったと思います。

臓器移植の「マーケット」の拡大に寄与

負け戦はしない、いや、勝てる場所を選ぶ、勝つための方法を考える、という感覚、興味深いですね。では、MRから起業に至る経緯など教えていただけないでしょうか。

石井 アストラゼネカでは札幌でプライマリーケアの領域で仕事を始めました。高血圧ですとか糖尿病の薬を扱うわけですが、理解いただけるかどうか分かりませんが、この領域は完全なゼロサムの世界でMRは競争することになります。薬それぞれの違いが問題なのではなく、薬を服用するかどうか、にこそ患者がそれぞれの病気と向き合う鍵がある世界です。車に例えるとカローラとサニーみたいな感じでしょうか。カローラとサニーはそれぞれトヨタと日産の大衆車で、スペックには、まあ差はありませんよね。ですので、どちらに乗るかではなく、そもそも車に乗るかどうか、そこが問題なんだ、そんな比喩ですね。私はそこで成績をあげました。ライバルを蹴落とすという感じです。ただ、どうも面白くない、やりがいがないのです。

MRとして、なにかもっとやりがいのある仕事がしたい、わくわくするような仕事がしたいと考えました。2008年にノバルティスに移ったのは、そこで臓器移植の仕事に携わりたいと考えたからです。

基本的に、医療は病気の進行を緩やかにする、穏やかにすることで寿命を先に延ばす、そういうものだと考えているのですが、臓器移植については、そうではなくて例えると機械がパーツ交換で元通りになるように劇的に生活の質を変える、そんな医療になります。

例えば、妊娠可能時期の女性を例にすると残念ながら人工透析をする状態になると妊娠し出産するためにはとても高いリスクを負わなければなりません。しかし、腎移植をして安定期に入れば、免疫抑制剤という薬を服用しながらという前提にはなりますが、子供を産める、子供を持つ、子供を育てるという人生の喜びを諦めなくていい。人生が変わるのです。心臓病を抱えた幼児も、心臓移植でその後の人生を変えることができる。

しかし、日本では残念ながらアメリカで行われているような臓器移植・臓器提供はまだまだ普及していません。人口比率で見た移植件数はとても少ない。

海外では解決できているのになぜ日本では解決できないのだろう、そう思いました。もちろん、その理由として、文化や宗教や教育の問題が語られます。全くそうした要因がないとは言いません。しかし、もっと根本的には移植手術を行える医療機関まで患者がたどり着けない、臓器不全に陥る前の状態で意思決定に必要な情報が手元にないという構造や、部分最適化された我が国の医療のバリューチェーンの中で、医療機関の経営上のトレードオフがあったりする、そこにイノベーションを起こすことで、構造そのものを変えていきたいと考えたのです。

大阪は、日本における臓器移植の先端的な街でしたし、ノバルティスは臓器移植におけるキードラッグを持っていて、日本での移植成績の向上に寄与するためのチームを持っていました。私はそのチームに入り、そのための取り組みに奔走しました。私がそのチームで言っていたのは、マーケットそのものを拡大させようということでした。マーケットそのものが拡大すれば、人工透析と移植手術と患者を取り合うゼロサム的な世界ではなく、それぞれが潤うかたちでしかも病気に悩む患者を救っていくことができると考えたのです。成果はあがり、5年で臓器移植手術は大阪で2.4倍に増加しました。