豊かな人生とは何をもって言うか、その指標はお金だけでしょうか? ビジネスを成功させた人に聞くと「人に恵まれた」エピソードが必ず語られます。コロナ禍を体験し、先が見えない世の中だからこそ「人と繋がる」ことの大切さが身に沁みます。“人”という字が支え合っているように、人と出会って何を学んでいくかは、人生において大切な自己投資になります。この連載では、専門知識に秀でたスペシャリストや様々な経験を重ねたその道の達人に、豊かな生き方の極意を語ってもらいます。第13回のテーマは「女性の事業承継」。100年以上続く家業を事業承継した、和久田惠子さんにお話を伺いました(聞き手=さらだたまこ)。
和久田 惠子(わくた けいこ)さん
株式会社ダイワ・エム・ティ 代表取締役社長。
大学卒業後は広告代理店に入社。セールスプロモーションの部署に配属され、大学時代から培ったナレーション、MCの素養を活かして各種イベント企画を手掛ける。
1988年に富士市に帰郷し、現在の株式会社ダイワ・エム・ティの前身となる、株式会社大和木型製作所に入社。先代に経営学を学び、取締役専務を経て、2006年より代表取締役社長。 二児の母でもあり、PTAの有志と2004年に立ち上げた影絵劇団「Kage-Boushi(影法師)」の代表を務め、各地での公演活動にも力を入れているなど地域教育活動、ボランティア活動にも熱心に取り組んでいる。
広報センスが光る女性社長の事業承継力!
静岡県富士市に本社を置く株式会社ダイワ・エム・ティのHPを最初に見たとき、「うわ! イケてるHPだな!」と、思い、気が付いたらサイトの隅々まで覗いてしまうこと約1時間!
いわゆる “ものづくり”の町工場なのだけど、そこで働く人たちのインタビュー動画や写真がいっぱいアップされていて、みんな楽しそう!
へたな動画サイトをウロチョロするよりよほど充実した内容で、CADのアニメーションなど、ワクワクと心躍ることも多く、特に目を奪われたのは、創業100周年の記念ポスターでした。
普段は作業着を着て工場で働いている社員のみなさんが、老若男女を問わずショッキングピンクやレモンイエローなど鮮やかな装いに身を包んで、まるでファッション雑誌のモデルさながらに、工場の機械を背景にカッコいいポーズで決めています。
しかもいろんなバージョンがあって……。
この会社、すごいCI(コーポレート・アイデンティティ)に力を入れているけど、めちゃ優秀な広告代理店とタッグ組んでいるんだなあと思ったのです。
でも、なんで、こんなに広告費にお金かけられるんだろう?
しかも、こんなセンスのいいクリエーターをどこでみつけたんだろう?と次々と疑問の嵐!
しかし、その謎もほどなく解明しました。
社長の和久田惠子さんは、若い頃、広告代理店に勤務し、セールスプロモーションのバリバリのプロだったということが、HPに掲載されている経歴からわかったからです。
和久田惠子さんはダイワ・エム・ティの3代目社長。平成18年(2006)に先代社長で父親の和久田三郎さんが亡くなり、ひとり娘の惠子さんが事業承継することになったのです。
1985年に制定された「男女雇用機会均等法」によって、以来、女性の社会進出に追い風が吹き、女性の管理職や、起業する女性たちの活躍がスポットライトを浴びる中、しかしながら、堅い製造業の事業承継を女性が担うというのは、21世紀になっても、まだまだ珍しいことでした。
夢を諦めて、実家に戻ってみたら!?
和久田惠子さんが3代目社長となった株式会社ダイワ・エム・ティは、大正5年(1916)の創業で、惠子さんの祖父・和久田八十松さんが船舶機械の木型製作所を開いたのが始まり。
創業当時、造船といえば国の重要な軍需産業で、その一端を担うものづくり。
戦後は、自社の木型製作技術を活かし、高度経済成長期を支えた自動車産業や製紙産業の一端を担い、さらに、科学技術の発展とともに、新幹線、航空機、宇宙衛星、医療などの部品開発など、発展を続けて、デザインデータから試作型・量産型・設備機械の製造までを、社内で一貫して請け負う企業になっています。
惠子さんは、和久田家のひとり娘として生まれ、「将来はアナウンサーになりたくて」東京の大学に進学します。
部活は演劇部と放送研究会で、人前で話す技術を磨き、在学中からナレーションのアルバイトをして、プロを目指していました。
しかし、放送局のアナウンサー採用試験は大変競争率が高く、さらに年によって採用試験をしない局もあって、希望が叶わないと知った惠子さんは、広告代理店に就職。
この経緯を聞いたとき、筆者の人生とかぶるなあと親近感を覚えたのです。
筆者も大学時代、アナウンサーの養成スクールに通って、番組オーディションを受けてラジオ番組のアシスタントを2年間務めたのですが、局アナ試験の厳しさを実感し、同時に番組を企画構成する放送作家という仕事があることをみつけ、方向転換したからです。
当時、広告代理店は放送局と並んで花形の人気職種で、惠子さんも「女性の感性に大きなニーズがある」という直感から「やり甲斐のある居場所」を求めました。「イベントを企画するのが好きで、司会なども率先してやってました」と、惠子さんはいいます。
バブル期の真っただ中! 努力すればやりたいことがカタチになる花形職業を惠子さんは「ずっと続けていきたい」と思っていました。やがてキャリアを重ねたら、もっと表に出るチャンスも増え、タレント性を発揮して有名人になったかも知れない……。当時流行っていた“聖子ちゃんカット”が良く似合っていた惠子さんの若き日の写真は、その可能性を表していました。