テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
連載第93回は、Jazz、Rock、Classic音楽ファンで知られる放送作家の田北豊明さん。
拾った1円玉でキャラメルを買った……
私は大分県の西の端、ほとんど熊本との県境の山村で生まれ育った。人口は2000人足らず、小学校へは片道4キロの山道を1時間ほどかけて通った。
通学路には、時たま放牧地から脱走した牛が寝そべっているので、子どもたちは恐る恐る横を通りぬけたものだ。そんな風だから、店らしい店もほとんどなかったが、唯一、民家が集まっている辺りに雑貨店を兼ねた駄菓子屋が1軒あった。細い三叉路の角にあったので、皆は「三角屋」と呼んでいた。
あれは小学校に入学してすぐの頃だったか……友達3人で学校から帰る途中、通学路に1円玉が落ちていた。アルミ貨なので軟らかく、汚れて傷だらけだったが、お金はお金。どうしようか迷ったあげく、「三角屋」で買い物をしようということで話がまとまった。
思えば、子どもたちだけで買い物をするのは初めてだった。3人で緊張しながら店の戸を開け、小声で「おごめーん(御免くださいの大分方言)」と声をかけたが誰も出てこない。何度か声を掛けると、「なにが欲しいんかえ」。外で畑仕事をしていたおばちゃんが、頭に被っていた手拭いで汗を拭きながら帰ってきた。
おばちゃんは、通学の途中でよく見かけていたので、ネコババを叱られるのではないかと冷や冷やしたが、黙って、駄菓子が入っているガラス瓶を指さし、1円玉を差し出した。あの頃(昭和30年代)は、1粒1円でバラのキャラメルや飴玉が買えたのだ。
おばちゃんは、一瞬、瓶の蓋を開ける手を止めて3人の顔を見回した。そして、笑いながら1円玉を受け取ると、キャラメルを3人の手に1粒ずつ握らせてくれた。
私たちは逃げるように店を飛び出し、手の中のキャラメルをしゃぶりながら家へ帰った。おばちゃんありがとう。あの時の緊張とキャラメルの味は今も忘れない。
思えば、つい最近まで、買い物でお金をやりとりするには人間が介在した。
いつからだろう、コンビニやスーパーに精算機が設置されて、味気ない機械にお金を投入するようになったのは……。
数字の単純な書き写しができない……
私は、今でも算数の暗算や、お釣りの計算が苦手だ。数字を書き写すだけの単純な作業でさえ、口の中で何度も繰り返しながらでないと間違えてしまう。例えば、2584と書き写すところを、2845とか2548と書いてしまうのだ。
もともとお金に縁が薄いうえに、フリーランスだから収入が一定していない。それなのにあればあるだけ使ってしまうのでいつもピーピーしている。
以下……お金にまつわる失敗談を2題ほど。
どうも私は、何か初めての事をするときにお金で失敗するようだ。学生時代、現金を20万円持って京都に旅行した。どうして、2泊3日の旅で現金をそんなに持って行ったのか? 初めての1人旅だったので、「万が一に備えて!」と考えたのだろう。その割にはルーズで、普通の茶封筒に入れて、バックにそのまま放り込んでいた。
初日の宿は、忘れもしない京都駅前の京都タワーホテル。翌朝、荷物を軽くしようと、不要なパンフやチラシを部屋のゴミ箱に捨ててチェックアウトした。さて、どこで朝飯を食おうか……とバッグを探すと20万円がない! さては、パンフやチラシと一緒に封筒も! と、慌ててホテルに戻ったが、もう掃除が入った後で、なけなしの20万円はゴミと一緒に焼却されてしまったのだった。
20代の頃、大分で一時期、建設会社に勤めていた。
営業部に配属されて、災害復旧工事の入札に1人で行かされた。上司から「割の合わない工事だから落札するな!」と指示を受け、7、8000万円だか、少し高めの積算金額を紙に書いてもらい、役所でその数字を入札用紙に書き写した。
結果は、その日の午後にわかった。「〇〇工業さんに落札!」私は耳を疑った。私の会社が落札してしまったのだ! さらに、入札官が読み上げる落札金額に愕然とした。私は、マルを1つ少なく、つまり、一桁少ない金額で入札してしまったのだ。
帰社してから上司に何と報告したかは恐ろしくて覚えていない。
単純に数字を書き写すだけでもこの有様なので、よくよく私とお金は相性が悪いのだ。
だから、せめて買い物のときくらいは、無機質な機械を相手にするよりも、温もりのある人間的な触れ合いが欲しいのである。遠い日の「三角屋のおばちゃん」のように。
次回は仮屋崎耕さんへ、バトンタッチ!
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。