テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会(放作協)がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず! 
連載第137回は、「どらま作家」を自称する蔵元三四郎さん。

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小川英

蔵元三四郎さんの写真蔵元三四郎
どらま作家
日本放送作家協会会員

小川英先生が亡くなり今年で28年。命日の4月27日を前に著名な建築士になられたご子息が富士の裾野の霊園から、ご自身が設計なさった芝公園、増上寺の塔頭寺「宝珠院」の墓地に移骨をなさったと、先輩脚本家などから知らせを受けた。富士は遠いが都内は近い。そういえば、弟子入りしたのは28歳の年だった。何やらまた数字のこじ付け癖を噛み含みながら、今年のご命日に初めての墓参りをさせていただいた。

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墓地はそんなに広くない。マッチ箱サイズの墓碑から始まる一番奥、恐らく最上位の場所に師匠の墓があった。手を合わせながら真っ先に浮かんだのは「オレの息子たちには、こんな親孝行は無理だな」という思いだった。次に浮かんだのは銀座4丁目の風景。毎年1位を貫く路線価は、今年も一平米4,000万円を超えたのだろうか?

小川英先生は恐らく脚本家として大成し、財を成した脚本家の一人だ。台本を整理されたご遺族の調べで作品数1500本以上、池田一朗(隆慶一郎)先生に師事し、池田先生が借金を申し込まれた時の様子を「不遜の弟子」という題で月刊「シナリオ」(90年1月)に書き残している。池田先生葬儀の式場では10cm以上の分厚さがある香典袋を差し出されていた。

共作で脚本家デビュー「太陽にほえろ!」(副題:恐ろしい)の放送日は1985年1月11日。その後すぐに、私は小川英が初めて月給10万円を払う弟子になった。お側にいた期間は10年。師匠の髭のお顔や様々なシーン、思い出が甦る。原稿を読みながら漏らす溜息、業界や人々の噂話、馴染みの中華料理店では釣銭をテーブルに残し、配膳のウエイターたちを気遣っていた。

師匠への追悼文を月刊「ドラマ」(94年07月)に寄稿した。題は「不遜の弟子2」 そこに「奥様に言えないこともある」と書いた。ご夫婦で老人ホームに入るための金1億円を内緒で貯めているという内密話だ。照れ屋で愛妻家だった。墓碑で64歳で亡くなったことを知った。私は今年67歳。師匠より3年長く生き永らえている。

墓碑を前に師匠が好きだった麦酒で献杯の仕草をした。その時トンボが飛んできた。田舎暮らしで珍しくはないが、そのとんぼは何故か、私の目の前で静止し、まるで挑むようにこちらを睨む。「あ、師匠が来た」何故か、そう思った。その瞬間、涙が溢れ出て嗚咽した。蜻蛉は、私が墓地を後にするまで、私の近くを舞い飛んでいた。

小川英氏のお墓の写真師匠のお墓参りでは、師匠が好きだった麦酒で献杯

月給

この原稿を書くにあたり、バックナンバーを辿って先輩、諸兄姉の投稿を拝読した。構成作家の悲惨な実情が赤裸々に語られ、大変興味深かった。ギャラは後出し後払い、企画書不採用でギャラなし。脚本でも同じような現状だ。独り立ちした後、名前が消された企画書の直しを頼まれたことがある。もちろん、それはお断りした。いじめや犯罪に加担するような話だ。だが、私がこれら業界の悲劇を知り、どっぷり浸かって喘ぎ始めたのは、師匠の側から離れた後だった。デビュー以来、私は温室育ち、小川英という大樹の木陰で灼熱の日差しを避けて過ごすことが出来ていたのだ。

小川英氏の写真デビュー以来、私は小川英という大樹の木陰で灼熱の日差しを避けて過ごすことが出来た

師匠の絶筆となったNHKの人形劇「平家物語」は当初、WOWOWでの企画だった。それが途中で反故になった。師匠は違約金を含めて請求した。相手は台本を寄越せという。まだそんな物ありはしない。あるのは私が原作文庫16巻から起こした小箱風のダイジェストだ。シーン毎に柱を立て、時系列を追って大まかな内容を書きまとめている。師匠に命じられた仕事ではなかった。師匠はその分厚い印刷物をペラペラと捲り「お前も凝り性だな」と薄ら笑いを浮かべた。だが、病室で原稿を書き進める中で「あれを寄越せ」と、何度も仰ったそうだ。貰えた金額は確か50万円。もちろん月給を貰っている私に取り分、配分はなかった。

局で2時間ドラマの打合せの後、珍しく師匠がPの誘いを受けた。しばらくPとゴニョゴニョ話していた師匠が「あっちを向いていろ」と仰った。話の内容は聞こえる距離だ。前払いで150万円支払うというPからの申し出だった。後に師匠に「あの金はどうなりました?」と聞いた。師匠は憮然顔で誰それに幾ら、誰やらに幾ら渡して、もうないという答えだった。もちろん、月給を貰っている私に取り分、配分はなかった。

師匠からの月給は初年総額110万円だった。確定申告書を辿ると師匠からの直接入金ではなかった。田波靖男先生たちと設立した事務所からの振り込みだった。師匠からの入金はデビュー翌年、1986年から1991年の6年間で、最高額は年間総額630万円だった。「へー、凄いな」他人事のように呟いた。

師匠が生み出したTVドラマは多い。師匠は企画料を放送毎という取り決めを実践されたようだ。ご自身が脚本を担当しなくても放送の度に入金があった。節税対策なのだろう、その一部を担当税理士の采配で私の収入に振り分けた。健康保険料や地方税などが高額になるのに気付き根を上げた。丁度、師匠と離れる時期と重なり、給料の支払いも以後なくなった。

今回の原稿依頼で華やかなりし頃の思い出が甦った。noteという気になっていたアイテムを活用されている方々の活動も知った。私も登録して、少しずつそちらに続きを書き溜めてみます。

次回はたむらようこさんへ、バトンタッチ!

是非見てください!

これから描き始めるであろう
note クリエーターページURLはこちらです。

https://note.com/happy_coyote777
(おおッ!777 久しぶりにパチンコ行くべッ!!)

一般社団法人 日本放送作家協会
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。

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