テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会(放作協)がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
連載第151回は、『新春かくし芸大会』や『ものまね王座決定戦』『爆笑そっくりものまね紅白歌合戦スペシャル』など数多くの番組を手掛けてきた構成作家の大御所、沢口義明さん。沢口さんは秋元康さんの兄弟子で、業界では有名な放送作家流派『奥山侊伸(コーシン)一門』の筆頭に名を連ねる存在。今回は2023年5月に亡くなった師匠の奥山侊伸さんの思い出をお届けします。
秋元康の目に涙?
突然、秋元康が献杯の挨拶途中で声を詰まらせ、涙ぐんだ。
90人ほどの参会者たちにとって思いもしない出来事だった。
「まさか、秋元さんが泣いてる……?」
奥山さんが5月2日に肺疾患のために倒れて意識不明となり、3週間の治療もむなしく5月24日永眠された。
84才だった。
病院はまだコロナ情勢であったため、弟子達は誰も面会も叶わぬままのお別れだった。
このまま奥山さんの記憶が薄れていくのはとてもやりきれない。
有志が集まり奥山さんの思い出を話し合うパーティーを開催することになった。
偲ぶ会のようなお通夜みたいなものではなく、あくまでもパーティー。
その方が奥山さんも「なにやってくれてんだバカヤロ」と笑って喜んでくれると意見が一致したのだ。
パーティーのタイトルは奥山さんが手がけた代表作のひとつにあやかって「『全員集合』の会」とした。
発起人は秋元康、福岡秀広、原すすむ、河村達樹、そして私、沢口義明の5人。
私はパーティーの主催など簡単……と高を括っていたがこれが大間違い。
細かい作業が山積みで、発起人たちの前にはスペシャル番組を丸々1本構成演出しなければならない程の苦労が待っていたのだ。
弟子になって50年
私が奥山さんにとって初めての弟子になったのはちょうど50年前。
当時私は「ペンタゴン」という放送作家のグループで原稿運びのアルバイトをしていた。
「ペンタゴン」は青島幸男さんの弟子8人が集まって作った事務所で、河野洋さん、田村隆さん、水根重光さんなど、錚々たるメンバーが活躍していらした。
私は先輩たちの書く原稿を盗み読んで台本の書き方を覚え、ラジオ局やテレビ局に送り届けて修業の時を送っていた。
大先輩達の中で初めて「この人の弟子になりたい」と思ったのが、奥山さんである。
当時奥山さんは「シャボン玉ホリデー」「巨泉前武ゲバゲバ90分」「8時だョ!全員集合」「ミュージックフェア」などバラエティや音楽番組の構成を手掛ける超売れっ子の作家だった。
そんな奥山さんの弟子になるのはどうしたらいいのか。
1人で奥山さんに面会して、「弟子にして下さい」と申し込むなんて勇気のカケラも無かった。
そこで一計を案じて、ニッポン放送で当時「ドン上野」と呼ばれ、天才ディレクターの名を欲しいままにしていた上野修さんに口添えをお願いすることにした。
上野さんは奥山さんが構成を務めた人気番組「ザ・パンチパンチパンチ」のディレクターであり、その台本原稿を私が事務所からニッポン放送に届けていた……というだけの御縁である。
上野さんは私をロビーでくつろいでいた奥山さんの前に連れて行き、「奥ちゃん、こいつ奥ちゃんの弟子になりたいんだって」と紹介して下さった。
奥山さんは緊張で足が震えている私に、冷たくこう言った。
「悪いな、俺は弟子は取らないんだ」私は返事も出来ずに頭を下げて俯いていた。
すると上野さんはこう続けた。
「こいつさ、放送作家になりたくて大学辞めて、札幌から出て来たんだよ」
途端に奥山さんの表情が緩んで思いがけない返事が……。
「なんだ、お前札幌か。だったら仕方ないな」
仕方ないけど、弟子入りを認めてもらえたのだ。
後からわかった事だが、奥山さんは旭川の出身、上野さんは小樽の出身、そこに札幌出身の私が同じ北海道の人間としてはまり込むことができたのだった。
そしてのちに同じ門下生となった脚本家の遠藤察男は、奥山さんの人柄や弟子たちの関係についてこう書いた。
奥ちゃん。奥ちん。多くの人からそう親しまれた奥山さんの周りには、ひとり、ふたりと放送作家を目指す若者が集まってきました。
「勘違いすんのは勝手だけど、俺は責任持てないからな」
「偉そうなこと言うようになったねぇ、ろくに喋れもしなかったバカが」
「で、お前はいつ利口になるの?」
……とは言うものの、弟子たちに対する口の悪さと反比例する優しい笑顔と面倒見の良さは天下一品。気付けば多くの弟子が奥山さんの周りに。何時しか奥山一派はテレビ界を席巻する作家集団となっていきました。
そして、パーティーで上映したスライドショーのナレーション(ナレーター:西村知江子、構成演出:原すすむ 江良純一 矢嶋健二、スライド制作:桜木隼人)では、
ラーメンとオートバイ。
Gパンとセブンスター。
そして大好きだった音楽と、やっぱりテレビ。
とあるインタビューで、最近のテレビはどうですか?と訊かれた奥山さんは答えています。「面白いよ。毎週欠かさず観ている番組もたくさんある。テレビ離れなんて言われてるけど、それはちゃんと観てないだけ。よく観ればちゃんと面白い。今のテレビに言いたいこと? 無いね。俺も若い頃、ジジイから色々言われて頭来たもん。うるせえな、バカって」
このスライドショーは参会者の感動を呼ぶ傑作だった。
秋元康が挨拶の時に涙で言葉を詰まらせたのは、これを見た直後であった。
前途の通り「『全員集合』の会」は実現に向けて困難の連続だった。
それでも成功にこぎつけられたのはスタッフの熱意のおかげである。
「楽しかったよ」
「偲ぶ会なのに面白かった。笑えた」
終了して皆さんがそう声をかけて下さった事が何より嬉しかった。
『奥山さんの夢』
奥山さんが亡くなって半年が過ぎてから、私は奥山さんの夢を見た。
実は放送作家になって50年、夢に奥山さんが登場するのは初めてだった。
だいたい放送作家は仕事がらみの夢を見る時、それはほとんど悪夢と決まっている。
生放送の本番直前なのに台本が出来てなくて焦りまくっていたり、徹夜して書き上げた台本を「そんなつまらねぇものを持って来るな!」とディレクターに罵倒されたり……。
しかし奥山さんが登場したその夢はかなり違っていた。
私は駆け出しの作家で、奥山さんの後ろについてラジオのスタジオに入って行った。
するといきなりの『?』。
とんでもなく広いスタジオに巨大なテーブルがあり、その周囲に30名ほどのスタッフが座って誰はばかる事なく雑談していたのだ。
奥山さんが席に着き、もう満席だったが私は奥山さんの対面にスキ間を見つけて、小さな椅子をそこに押し込んで座った。
「こんな大勢で打ち合わせをするラジオ番組なんてあるのか?」と不思議に思ったが、奥山さんは対面に座った私に喋り始めた。
しかし周囲のスタッフは雑談をやめない。
どうやら奥山さんは番組のアイディアを私に伝えようとしているらしい。
だが雑談は止まず全然聞こえない。
私は思わず「奥山さんが喋ってるんだ!静かにしろよ!」と叫ぼうとしたが、私はペーペーの作家見習いの身である。
何も言えず、奥山さんが私に向かって楽しそうにアイディアを語る姿を見て、時折聞こえているかのように頷くしかなかった。
しばらくして周囲の喧騒が突然やんで、奥山さんは私が知っているあの笑顔でこう言ったのだ。
「どうだ沢口、面白いだろ?」
私はなぜか幸せな気分になり、大きな声で答えた。「はい!!」
そして私は幸せな気分のまま、目が覚めた。
枕元にはスケジュールを記すカレンダーがぶら下がっている。
私はその11月21日の欄にボールペンで『奥山さんの夢』と書き入れた。
次回は山崎純さんへ、バトンタッチ!