DJの仕事を通じてITベンチャーの熱気に触れる

いきなりメジャーなクラブでDJになられたのですね。DJで世界が広がって、やがてITベンチャーを起業される、その経緯を教えてください。

村井 DJは企画書を書いてもっていったり、礼儀正しかったり、そこは欠ける方が多かったのだと思います。私は、そこはしっかりしていました。DJになって、本当に音楽を聴き、音楽にのめり込みました。もらっている給料のほとんどはレコード盤に消え、それでも足りない分は、なんば界隈で私書箱センターやポスティングの仕切りなど、偶々出会った企画会社の社長に付いていろいろな仕事をして稼いでいました。

クラブは社交の場で、VIPルームには電通など広告代理店の方も来ていましたし、勢いのあったベンチャー、Yahooや光通信、ソフトバンクなどの社員も来ていました。携帯電話が普及し始めた頃です。私自身その頃は、DJとして仕事も広がり、東京や地方、様々なイベントで司会も兼ねて呼ばれたりしていました。テレビやラジオの番組にも出ていたものです。ただ、とにかくレコードやCDを買わないといけないので、イベントなどで携帯を売るアルバイトも始めました。クラブは独特の雰囲気があって、昼間であればその人に会うまで幾つも幾つも障壁があるような方でも気安く話せるような関係ができてきます。そのうちに携帯電話やPCの普及、インターネットの発達などまるで革命のような状態になって、クラブに来るITベンチャーの社員の熱気の渦に私自身、巻き込まれ、惹き込まれていきました。まさにバブルの世界です。

DJはDJでとても面白かったのですが、結局あるスタートアップ企業に参加することになり、そちらが本業になりました。そのエネルギーは物凄くて、3人で始めた企業が2年後には200人の企業になるようなスピードでした。私も部下を持ち、部下が増え、東京と大阪を新幹線のグリーン車で往復するような日々が始まりました。私は基本、大阪が拠点という人生ですが、その頃は東京オフィスの近く、五反田のあたりに住んでいたこともあります。

そのうちにクラブの店長だった知人などと新しいITビジネス、ベンチャー企業を起こそうと話し始めました。いまではFaceBookは巨大なメディア、巨大な企業として世界に君臨していますが、同じようなことを考えていた起業家はたくさんいたのです。クラブの世界にいて、なぜ人はクラブに集まるのか、そうしたところから事業の構想が始まりました。人は同質の人を求め、群れを作る動物です。クラブもまた音楽が好きで、音楽に浸っていたい、それぞれのクラブのビートに身を委ねていたい、そうした人達が集まる場所なのだと考えました。インターネットは、その力で物理的な限界を超えて同じような趣味、同じような嗜好の人々を繋ぎとめる場所になる、また、リアルな店舗も作ってそうした人々が憩う空間も作っていったらどうだろう、そんな構想です。

4人が集まってプランを立てました。人脈はあったので、有名な金融機関のトップにプレゼンをして、条件はありましたが、なんとかファイナンスが付き、事業が始まりました。私も取締役として事業に参画したのです。

ただ、実際にはこのシステムの構築はお金もかかるし、難しいものでした。会社を運営しないといけないので、これも人脈をたどってYahoo CAFÉの運営などを表参道や秋葉原、品川などで行いました。飲食店の経営についてはノウハウを持つ集まりでしたので、そこはなんとか凌ぐ感じです。また、飲食事業を展開したい企業の企画とオペレーションに携わることもありました。サイトの製作やキャンペーン企画の提案や遂行、イベント開催なども手がけました。webマーケティングのアドバイスなども手がけました。とにかく、そのまえの仕事からそうですが、朝も夜もなく働きました。電通など広告代理店の人脈で、CMの曲の製作なども行いました。

しかし、それは起業の夢とはかけ離れた世界でしたし、赤字も続くなかで、任期の3年が終わったところで、一度身を引こうと考えたのです。

「バイク部品の卸商」に感じた可能性

お話を伺っていると、あの季節のうねりが蘇りますね。確かに何か新しい世界が始まるという熱気がありました。ただ成功もあれば成功しなかった企画もあります。ITベンチャーを離れられ、「ベンチャー型事業承継」に至る経緯など教えてください。

村井 守成という言葉がありますが、祖父の起こした会社を父は地道に守っていました。鶴橋部品は名前の通り、大阪の鶴橋でもともとは自転車屋から始まった会社です。それを祖父が自動車やバイクの部品の卸商に変え、地域の整備工場などを中心に商売を行っていました。

バイクのパーツ
村井社長の父は大阪・鶴橋でバイク部品の卸売を営んでいた

父はもともと家業を継ぐつもりはなかったようですが、祖父が病に倒れた際、引き戻されて家業を継いだわけです。母が亡くなった後、家政婦の方に来ていただいて家事をお願いしていましたが、母が亡くなって5年後に父が再婚しました。その前後になりますが、弟を事故で失いました。私はその頃には家を出ていて、驚いて家に駆けつけたのを今でも覚えています。母が亡くなったときは、病気でしたし覚悟もあったのですが、弟の死は予期していなかったので、しばらくは弟の死を引き摺ることになりました。家族としてはそんな歴史です。

鶴橋部品は、ぼろぼろの長屋でしたしエアコンもないような商店でした。父も55歳になっていて、もし私が継がないのであれば会社を畳むつもりだがどうする、と言われたのです。バイク部品に関して言えば、日本では縮小産業です。会社もなかなか厳しい局面に来ていました。しかし、祖父や祖母が起こし、父が守っていた会社です。正直、かっこ悪いな、という感覚はありましたが、まずはやってみようと思いました。私の代で潰すのは抵抗もあったからです。

ところが、実際に入社してバランスシートを見てみると、そこにはある程度のキャッシュがあり、利益も出ていたのです。父が祖父の教えを守ってとても堅実に経営してくれていたのだ、と思いました。また、入社して仕事の流れが見えてくると、仕入れと売り方さえ変えていけば、この仕事にはチャンスがある、と鉱脈が見えてきました。そうすると父がベンチャー企業に資金を提供するエンジェルのように思えてきたのです。

店を起点に近畿一円の顧客を対象にして、電話で注文を受け伝票を起こしトラックで運ぶ、そうではなくて、全国のバイク販売店や整備工場を対象にして彼らが求める部品をインターネットサイトで販売していく、そこに大きなチャンスがある。また、実際にはメーカーが情報を開示しないこともあって、どの車種ではどの部品が、という紐づけがブラックボックスの中にありました。そこを鶴橋部品がこれまで経験として持っていた知識で繋ぐこともできる、そう思いました。仕入れも途中に入る卸や問屋を介さずに、直接にメーカーから仕入れたほうがいい、そのためには海外メーカーを開拓すべきだ、そうも思いました。そのためのロットを確保するためにもサイトの構築は必要でした。

ただ、どうしてもその発想、その商売は、これまでの商売で培ってきた関係を棄損するリスクもはらんでいます。それが、鶴橋部品そのものではなくカスタムジャパンという新しい器を起業した理由になります。父もその点は理解してくれました。

カスタムジャパンが軌道に乗っていった頃ですが、同業者の集まりでビールを掛けられたことがあります。私は、そのとき、私がやろうとしていることが正しいと確信しました。これまでの商慣習の中にいる方には、私が展開していることが、カスタムジャパンが怖いのだ、と感じたからです。

株式会社カスタムジャパン
鶴橋部品(現日本モーターパーツ)は、カスタムジャパンのグループ会社に

カスタムジャパンは順調に発展されサイトの会員数も8万を超えていると聞きます。日本モーターパーツに名前を変えられた鶴橋部品はグループ会社とされました。今後の方向性など最後にお聞かせください。

村井 残存者利益という話ですが、国内でもまだまだ伸びていくことができると考えています。それ以上に、バイク大国であるアジアには発展の可能性があります。クラブの話でもそうですが、繋げるという仕事にはとても大きな可能性があると考えています。私には部品も、そこに置かれるのではなく繋がりたい、生かされたいと考えているように思うのです。我が国はなおバイクや自動車については世界に冠たるメーカーがあります。バイクであればホンダ、スズキ、ヤマハ、カワサキ。そうしたメーカーの部品を扱うのは、やはり優位性があると思います。

また、乗り物を扱う会社として、乗り物それ自体を提供するのも夢ですね。駅やスーパーからのラストワンマイル、例えばかつて無名のメーカーが手作りのパソコンを提供していったように、パーツを扱う当社が新しい移動手段を提供していく、そんな取り組みも具体的に進めています。

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