ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第8回は、クラブDJ、ITベンチャーから転身して家業を継ぎ、現在は自動車や二輪車の部品を扱う業者向け会員制サイトを運営する、株式会社カスタムジャパンの村井基輝さんにお話を聞きました。

村井基輝氏

村井 基輝さん
株式会社カスタムジャパン 代表取締役

1974年生まれ。コンピュータ総合学園HAL在学中よりクラブDJとして活躍。その時代に培った人脈や縁で、興隆期のITベンチャーの世界に。やがて知人とITベンチャーを起業、有名なファンドの出資を受けるなど、順調に事業を起ち上げるも、壁にぶつかりやがて役員を退任。再度クラブDJに戻ろうかと考えている矢先に先代より家業相続の打診を受ける。自身が事業を継がなければ廃業も考えるという話に、祖父、祖母、父が守ってきた家業の火を消すことに抵抗を感じ、家業を承継。やがて慣習に囚われることなく、自動車やバイクの部品卸の世界にインターネット販売を持ち込み、別会社としてカスタムジャパンを起業。現在ではサイト会員数は8万を超え、従業員数も数名から、100名を超える規模に。自ら「ベンチャー型事業承継」を標榜する注目の若手起業家。

株式会社カスタムジャパンホームページ
昭和29年、現在の村井基輝社長の祖父が鶴橋でバイクや自動車部品の卸売商として起ち上げた鶴橋部品(現・日本モーターパーツ)が源流。2代目となる村井達司氏は横浜国立大学を卒業し、商社員として働いていたが、初代が病で倒れたことを契機に家業を承継。その後、クラブDJを経て自身でITベンチャーを仲間と起業していた基輝氏が2003年に入社。アスクルなどの成功をヒントに自動車部品やバイクの卸の世界にインターネット通販を持ち込み2005年カスタムジャパンを起業、車両販売店・整備工場・パーツ用品店を対象とした業者向け会員制BtoBサイトを運営。順調に会員数を伸ばし現在は8万店舗(バイク販売店では9割以上)の会員を確保、一方で鶴橋部品が長い年月で培ってきたパイプを活用することで、国内外からナショナルブランド、オリジナルブランドの製品を仕入れている。社業の順調な発展の中で、鶴橋部品を発展的に吸収。ベンチャー型事業承継の成功事例として様々なメディアで紹介されている。乗り物大好きカンパニーを標榜し、国内マーケットだけではなく海外市場、そしてまたラストワンマイルを繋ぐモビリティーの自社開発なども視野に発展を続ける注目企業。

卓球、プログラミング、そして音楽

村井社長は様々なメディアで「ベンチャー型事業承継」の成功事例として採り上げられていらっしゃいますが、それらの記事でも、親子の仲は決して良くなかったと話されています。私も父親との関係は複雑でした。もちろん、親子の事は結局、親子にしか分かりませんし、先代が堅実な経営をしてくれていたことへの感謝も様々なメディアでおっしゃっているので、尊敬もおありになるのだと思います。親子関係について、また、そもそもどんな少年時代を過ごされたのか、その辺りからお話をお聞かせいただけませんか。

村井 まず、事業承継については正直に仲が良くないくらいの関係でちょうどいいと感じています。親子間のM&Aみたいなものですね。先代の事業を買収するくらいの感覚で臨むイメージです。あまり先代のやってきたことに囚われてしまうと旧習に引きずられて改革もできませんし、思い切ったこともできません。当時は父とは年に数回しか話しませんでした。それもぶっきらぼうな話です。兄弟は1つ下の妹、7つ下、少し年の離れた弟と3人兄弟でした。

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少年時代ですが、とにかく色々な習い事をさせられていました。ピアノや絵画、家業がバイクの部品卸だった関係もあってモトクロス、それにサッカーなど、色々です。特にサッカーには打ち込みました。ただ、サッカーは上のチームにはなかなか上がれませんでした。ほかの習い事についても自分の才能について、自分は中の下か下の上か、いずれにしても上ではないというコンプレックスに苛まれていましたね。

それで、母が病気で入院したこともありますが、中学生になって習い事を全て辞めました。母は癌でした。37歳で罹患して39歳で亡くなったのですが、それは私が13歳から15歳の頃です。自暴自棄のような季節でした。とは言え、ヤンキーのようなグレ方をしなかったのは、私の頃はグレるとバイクで走る仲間に入るという感覚だったのですが、小学生の頃からモトクロスをしていたので、バイクの技術がそれなりにあって、彼らが幼く見えたからです。そうした仲間からは一目置かれていたと思います。

卓球に打ち込まれたと聞いています。

村井 これは本当に偶々(たまたま)なのですが、家の近くに卓球場がありました。この卓球場はとても有名で、世界チャンピオンのコーチのような人が教えている卓球場でした。福原愛さんなども練習に来るようなところでした。私はそこで教室に入り、そのうちに卓球に入り込んでいったのです。何かに打ち込みたいという渇望を満たしてくれたのだと思います。素質もあったのか、大阪でもランキングに入るようになりました。初めて自分が上の下くらいのポジションでいられる場所を見つけた感じでした。

トラリピインタビュー

高校は大阪ではなくスポーツ推薦で奈良大学付属高校に入りました。大阪より奈良の方が競争が少ないので、上のポジションにたどり着ける感じでした。全国大会などにも出場して、それなりに強い選手だったと思います。ただ、大学までスポーツ推薦で、とはなりませんでした。

高校を卒業すると、コンピュータ専門学校HALに進学しました。SE・システムエンジニアを目指したのです。金融系のシステムは当時COBOLで書かれていましたので、そのCOBOL、C言語を習得しようと考えたのですが、専門学校2年の時、1995年、マイクロソフトがwindows95を発売、全てが変わりました。C言語の授業はなくなり、学校は映像系の授業を増やしました。時代が変わる大きな潮目のなかにいたわけですが、COBOLを習得してSEになるという夢は遠のきました。

村井基輝さん

一方でその頃、音楽にも夢中でした。シャ乱Qなどが関西から出て行った頃です。ただ、ボーカル志望者もギターの巧い奴も廻りには溢れていて、もっと別な何かを探さないとだめだと感じていました。それは少年の頃、サッカーではなく卓球が自分の場所だったという経験から来るものでした。で、DJを目指そうと思ったのです。

半年くらい本当に勉強して、自分でミックステープと企画書を作りました。どんな系統の音楽を提供していくか、誰に対して、というような企画書です。それを持って、当時B’zやZARD、T-BOLANなどを輩出していたビーイング系列の会社が経営するクラブに面接を受けにいきました。そこで採用され、レギュラーになりました。クラブDJとしてのキャリアのスタートです。

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