ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第11回は、「脇肉キャッチャー」などの女性向け補整下着を販売する株式会社HEAVEN Japanの松田崇社長に、起業に至るまでの山あり谷ありな半生について聞きました。

松田崇

松田 崇さん
株式会社HEAVEN Japan 代表取締役CEO

1972年6月大阪の河内長野市に生まれる。早くから自分で商売をしたいという気持ちが強く、中学卒業後、辻調理師専門学校に入学。その後、自分は調理師になりたいのではなく経営者になりたかったのだと気づき、建材会社やトラック運転手などを経て、2003年ランジェリーの販売会社を創業。苦労しつつも勃興しつつあったネット販売の波にも乗り、事業は拡大。幼少期からの夢と合わせ、もう一つの起業の原点に23歳の時に旅行先のニューヨークで見た「タキシード姿で、ドレスで着飾った女性をエスコートしてホテルに入っていくアメリカンドリームを実現した雰囲気の男性」への憧れを挙げ、自らはジャパニーズドリームの実現に邁進する笑顔の爽やかな経営者。事業を通じ、顧客に喜びを提供することを重んじている。

株式会社HEAVEN Japanホームページ
2003年5月総合商事HEAVENとして創業。創業期の苦難を経てやがて黎明期から急成長を遂げたEコマースの流れに乗って発展。2011年2月には株式会社HEAVENプランニングを設立(2017年4月現社名に変更)。「Life is Happiness 笑顔あふれる社会」を標榜。スタイルのコンプレックス解消を図る補整下着の製造小売りを行う。世界中の女性の「キレイになりたい」という想いに応えることを目標に、ただ売るだけではなく、コンシェルジェスタッフを配置し、ネットショップで補整下着を買う事への不安や様々な相談に応え、無料でのサイズ交換や返品サービスも行っている。下着を通じて顧客に喜びや感動を届け、SNSやメルマガ、ブログなども駆使して「キレイのヒント」を提供しようとされている注目企業。

ビジネスの原点を教わった焼肉屋のアルバイト

今日はお時間をいただき、ありがとうございます。HEAVEN Japanは「脇肉キャッチャー」や「夜寄るブラ」など女性のキレイを追求する補整下着の世界で、躍進を遂げられている企業ですが、今回は松田さんの起業までの軌跡などにむしろ焦点をあててお話を伺いたいと考えています。まずは、生い立ちや少年時代のことなどを、お聞かせ願えないでしょうか。

松田 生まれは現在のこの本社のある河内長野市になります。父は生コン会社でミキサーの運転手をしていました。母は専業主婦です。7つ上の兄と4つ上の姉がいて、私は末っ子でした。特に実家が商売していたという話ではありません。

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小さな頃の思い出で鮮明に覚えているのは5つの時に、近くに3つ上のいじめっ子がいて、とにかくその子に勝ちたい、強くなりたい、と思って近くにあった柔道の道場に入門した思い出ですね。その頃から、思い立ったら行動に移すという感じでした。

結局、小学校3年生になった頃に、担任の先生が少年サッカー団の関係者だったりしてサッカーを始めて、柔道とサッカーの二者択一になって柔道は辞めてしまうのですが、そこで学んだことは多かったと思います。柔道を始めた動機がそもそも近くのいじめっ子に勝ちたいということでしたが、その道場の先生の「勝つことが強さではないよ」という言葉は現在でも覚えていますね。

サッカーは集団のスポーツで、みんなといる感覚でそちらを選びましたが、本当は自分は柔道の方が自分の性質には合っていたな、と現在では感じています。小学生ですので、黒帯になるとかいうレベルではありませんが、それなりに強い子供でした。ただ、他のことでもそうですが、熱がもう一つ足りないところがあって、サッカーと重なる頃には後から入ってきて自分より強くなる子供もいて、興味が少し薄らいだこともありました。

結局、スポーツについてはどっちつかずで終わってしまいましたね。

中学の頃は、まあ、昔話で勘弁して欲しいのですが、やんちゃ坊主でしたね。勉強については本当に興味が沸きませんでした。小さな頃から商売がしたいと強く思っていましたし、中学の頃は近くに王将ができて、その料理人がとても格好よく見えていて、料理人になろうと考えていました。

起業家の方の話をよく伺うのですが、多くが実家が商売をされていて、それが自分が事業を興すというイメージを育んでいるように感じています。どなたか近くにそのような方はいなかったのでしょうか。

松田 その意味では、母方の伯父がリヤカーを引く行商から始めて、軽トラックの運転手を経て、お好み焼き屋や八百屋を経営していましたので、その影響は、少しはあったかも知れません。ただ、直接の動機とは違う感じですね。とにかく子供の頃から商売に興味がありました。

HEAVEN Japan
HEAVEN Japanのホームページでは下着の販売も行っている

なるほど、話に戻りますが、中学を卒業して辻調理師専門学校に通われたと聞いています。そこからの歩みを教えてください。

松田 辻調理師専門学校を卒業し、紹介で病院食に入りました。16歳でした。現在から思えば中途半端でしたね。遊びたい誘惑もありましたし、自分の時間を作りやすい仕事を選んだのです。しかし、すぐに自分は料理人になりたいのではなく、経営者になりたいのだ、と気づき、そこを辞めました。そこから3年くらいは、自宅にいて友達の伝手で飲食や建築や様々なアルバイトをしていました。フリーターと言ってもいいかも知れません。

ただ、学びというのはどこにもあるものです。専門学校に通っていた頃に、ある焼肉屋でアルバイトをしていました。オーナーは銀行員から転身した方でした。そこで、経営について現在に繋がるような様々なことを学びました。

例えば、私は皿洗いでそこに入っていたのですが、皿を洗っていると先輩に足で蹴られるのです。なんだろう、と思うと、おまえの仕事は皿洗いではないよ、という話でした。お客さんを見てみろ、と言うのです。皿を洗いながら、お客さんのビールのグラスが空になったら、ビールお代わりどうですか、と声をかけてビールを飲んでもらうのが、おまえの仕事なのだ、と。1杯目で店が廻る、2杯目で自分たちの給料が出る、そして3杯目が利益に繋がる、それがおまえの仕事だよ、という訳です。

また、ビールを注ぎに行ったら手ぶらで帰るなよ、とも教えられました。空いた皿を持って帰れ、と。それが効率ということだ、と。教えられましたね。そこからは自分の頭で次に何をすればいいのかを考えるようになりました。

例えば冬、その店は繁盛店でしたので、外で待っているお客さんがいます。私は暖かいお茶をお客さんに出すようにしました。それは、お客さんに喜ばれるだけではなくて、彼らが帰れないようにする工夫でもあったのです。

工夫してそれがお客さんに喜ばれ、また店に喜ばれ、利益があがり、自分が認められる喜びを感じる、人に喜んでもらって利益をあげる、ビジネスの原点を教えてもらった職場でしたね。

アメリカ旅行で「成功したい」と決意

なるほど、いい話ですね。感受性の強い10代に生きた勉強をされたのですね。

松田 本当にそうです。ただ、一方では中途半端な感じでした。実は19歳のときにある壁材を扱う会社の役員の方に気にいってもらえて、そこで2年間、サラリーマン生活も送りました。焼肉屋での経験もあって、職人の方に3時におやつを差し入れたり、現場の知識を得るために話しかけて段取りを組めるようになったり、と、人の巻き込み方とかそこでもとても得がたい経験をさせてもらったのですが、そこでは上司と合わなかったりして、結局そこも辞めてしまいました。サラリーマンは自分には向かない、と強く思いましたね。

関西の子供には分かってもらえる話と思いますが、子供の頃のもう一つの夢は芸人になること、でした。その夢を叶えようと、やはりその頃に全盛期だった上岡龍太郎さんに弟子入りしたいと2、3回押しかけたこともあります。弟子の方を通して断られましたがね。

それではと、ダウンタウンが出た2丁目劇場で月亭八方さんに弟子入りをお願いしたこともありました。八方さんは、まあ、待っとけ、と出番の後に、私とその時、もう一人いた弟子入り志願とを喫茶店に誘ってくれました。「考えているような甘い世界ではないで」と説教され、結局、諦めたという思い出もあります。

そのうちに先輩から、アルバイトで来ないかと誘われてトラックの運転手になりました。大型免許も取って、実入りもいい世界で、30歳で起業するまでは、そこにどっぷり浸かっていましたね。

松田崇

アメリカとの係わりについて伺いたいのですが、起業に向かわれる上で転機となる旅行があったとお聞きしています。

松田 23歳の時の旅行ですね。その頃、ミナミで遊んでいたのですが、レゲエが好きでした。ボブ・マーレーが好きで、ジャマイカに行くか、ニューヨークに行くか、迷いながらニューヨークに行ったのです。初めてのニューヨークで、排水溝のふたから湯気が立っているのを見て、ああ、本当に映画の通りだ、と感動しました。世界を見て、自分の小ささにも気づきましたね。ニューヨークの人々は一人一人が誇りを持って生きている、そう感じました。

そこで、リムジンでホテルに乗り付けてドレスで着飾った女性をエスコートする男性を見ました。ああ、格好いいなあ、俺もこうなりたい、と強く思いました。成功したい、世界中を飛び回る仕事がしたい、貿易をやりたい、そんなふうに思いました。

それからはアメリカが好きになって年に2、3回アメリカに旅行に行きました。貧乏旅行ですが、ロスにもサンフランシスコにも行きました。英語ができるわけではありませんが、手振り身振り、カタコトの英語での貧乏旅行です。レンタカーを借りて、モーテルに泊まって、そんな旅行です。

27歳のときには、40万円を貯めて、これは片道旅行だ、アメリカンドリームをつかむぞ、と思い決めて旅立ちもしました。ただ、これも笑い話ですが、西海岸に行ってそのままラスベガスに行って、40万円すってしまいました。帰りのチケットとホテル代の数万円の現金だけ残っていました。ラスベガスの近くに移民の街があって、そこへ行って、なんとか働けないか、と動きました。本当に私は何も分かっていなくて、就労ビザすら持っていなかったのです。メキシカンや中国人に混じって何とか働き口を見つけ、働いていましたが、彼らも英語は話せないし、これはダメだ、と1カ月後には日本に戻りました。

それでも、やはりアメリカは好きで、そこからも年に1、2回はお金を貯めて旅行に行きました。

西海岸のフリーマーケットで見つけた下着が転機に

行動力が半端ではないですね。花登筺の小説の主人公のようなエピソードに溢れている感じです。最高ですね。で、現在の仕事に繋がるのもまたアメリカでの旅行だったと伺っています。

松田 結婚前の妻と一緒の旅行でした。2003年の1月、忘れもしません。サンフランシスコに行ったのですが、安い郊外のホテルに泊まっていて、朝、エレベーターを降りたときに彼女が何か部屋に忘れ物をした、ということで、ロビーで待つことになりました。退屈だったので、チラシを手に取ったのですが、それがサンノゼで行われている大きなフリーマーケットのチラシでした。レンタカーで、それじゃここに行ってみようか、と彼女と出かけたのですが、そこで、その当時に日本ではあまり見かけなかったような色とりどりのキレイな女性下着が3本20ドル程度で売っていたのです。彼女が下着を夢中で探しているのを見て、あ、これだ、と閃きました。

私はいつの間にか30歳になっていました。ぬるま湯に浸かって燻っていたのですが、今度こそ、ここで勝負を掛けようと腹が決まったのです。

当時の所持金は3万5千円でした。

そこからは、幼馴染みのお父さんで貿易商をされている方に毎夜訪問して、実務を教えてもらったり、実際に下着の貿易をどうすればいいのかを大阪の税関に聞きに行ったりしました。輸入については、最初にクロネコヤマトにどうやったらいいのかを電話で聞いて、私たちでは分かりません、と答えられたり、そんなエピソードもありましたね。

2カ月後の3月に、なんとか100万円借り、また、サンフランシスコに家内と二人で行きました。夢だけを持って行った感じです。思惑としては、フリーマーケットに出品している下着を生産している業者にたどりつきたいと思っていました。

1月の旅行で、フリーマーケットのチラシを手にしたのも偶然ですが、この旅にも偶然がありました。なにせ貧乏旅行なので、バスで郊外のホテルに移動するのですが、その乗り合いバスに乗り遅れてしまったのです。幸先悪いな、最悪だ、と感じたのですが、最悪こそ最善に変わるものです。次のバスにたまたま日本人の女性がスキンヘッドのアメリカ人の男性と乗っていて、私たちと仲良くなりました。男性は大学院の修士課程に通う方だったのですが、私たちの話を聞いて、面白いね、手伝ってあげる、と申し出てくれたのです。英語が話せない私たちに願ってもない優秀な通訳が現れたのです。

彼らの助力もあって、仕入れはうまくいきました。

2003年の5月、日本に戻り、5坪のショップを出して、輸入下着の店を始めました。ただ、残念ながら最初から全てがうまくいった訳ではありません。思うようには下着は売れませんでした。でも、なぜか今度だけは、途中で投げだしはしない、中途半端に終わりはしない、と心が決まっていましたね。考えてみれば、子供の頃の柔道もそうですが、自分は全部諦めてきた、それではダメだ、今回はやるだけやる、そう決めていたのです。

HEAVEN Japanのスタッフ
HEAVEN Japanで働くスタッフの皆さま

「キレイになることで得られる喜びを売っている」

ジャパニーズドリームを実現する、そんな感じですね。もちろん、まだまだ夢の途中だとは思いますが、そこからはネット通販の隆盛にも恵まれ、ここまで順調に事業を伸ばされていると思います。起業後のエピソードも満載だと思いますが、時間もなくなりました。一つだけ、その後の事業展開で気づかれたこと、成そうとされていることを教えてください。

松田 起業後の一番の気づきは、補整下着との出会いになると思います。家内やその頃一緒に働いてくれていた女性が、そのブラジャーを身につけたときに、胸のカタチがとても良くなって、本当に嬉しそうにしていた光景が忘れられません。これだ、まずは、女性に、お客様に喜んでもらうことだ、と思いましたね。下着を売るのではなく、キレイになることで得られる喜びを売っている、そう改めて思いました。顧客が本当に求めている何か、その何かを売る、今後もその基本に忠実に歩んでいきたいと考えています。

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