テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず! 
連載第50回は、『オレたちひょうきん族』をはじめ『王様のブランチ』『はなまるマーケット』など数々の人気番組を手掛けてきた、放送作家の高橋秀樹さん。

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月給3万円。でも使うことがなかった

高橋秀樹さんの写真
高橋秀樹
放送作家
元日本放送作家協会常務理事

テレビ業界に入って、これまで一度も食うのに困ったことがない。始まりは1978年(昭和53年)23歳すぎのことである。下請け制作会社で、まだ小さかったイーストのADである。8,000人の応募があったそうで、その内の3人に入れた。早稲田の第一文学部を事実上除籍になり、麻雀代打ち業、コピーライター見習いを経ての業界であった。月給は当初3万円。それでなぜ、困らなかったか。局内にいる限り一切カネを使うことがなかったからである。配属されたのはTBS。欽ちゃんの番組で、5thのADである。
ボスは元『七人の刑事』の演出家N村P。彼は、社員ADにいつもこう言っていた。

下請けのADには、一切カネを払わせるな。どんな時もお前たちが払え。おまえたちよりずっとできる、役立っている彼らより、アホなお前たちが何倍もの給料をもらっているのはおかしいと思うだろ」

つまり、この決まりがあったから、先輩ADとともに僕もおこぼれに預かれたのである。もちろん、テレビ自体にもカネがあった。昼飯に津つ井のステーキ丼、マルセイユ鍋付き、しめて3千円はするものを食べても怒られることはなかった。

なんのAD仕事もできない僕は当初、N村Pと、ともに酒乱のO橋DとS山D、3人のお世話係が担当。毎晩、3人のお供をして赤坂の高級寿司屋に繰り出す。この仕事をみんな避けたがっていたが、僕は平気だった。O橋Dは暴力系の、S山Dは舞踏系の酒乱。舞踏系は酔うと、店の床に寝ころがって踊るだけだから、女将さんにひたすら恐縮していれば済む。暴力系はとにかく肯定してあげれば怒りがマックスになることはなくコップの水をかけられる程度で済む。

お寿司屋の画像
先輩プロデューサーとディレクターのお供をして毎晩、高級寿司屋に繰り出した

3人とも、上寿司を頼むが、ほとんど食べることはなく、酒を飲んでいる。寿司は残る。お開きになると、若い僕を哀れんだ、女将さんが「普段も、あんまり食べてないんじゃないの」と、折り詰めを土産にして気遣ってくれる。そのあとは一ツ木通りに行って、2台タクシーを止める。一台にN村Pを放り込む。O橋DとS山Dは正体をなくししているから、僕がまとめて送る。その行く先が調布と新井薬師という反対方向である。まず、調布の細道を通ってO橋Dを片付け、次は環七に戻って、見逃しそうな道を曲がってS山Dを奥さんに渡す。そして、自分のアパートのある鍋屋横丁に帰る。タクシー代はもらった一万円から払い、お釣りを千いくらもらう。翌日、領収書さえ渡せば、千いくらは、僕の小遣いだ。

翌日の朝食は折り詰め寿司。これがたとえではなく、実際毎晩続く。僕にもたらされた後遺症は寿司が嫌いになったことくらいだ。

仕事は向こうからやってきた

こんな暮らしをほぼ一年。あっという間にチーフADになっていた。チーフADの権力は絶大である。会議のスケジュールも、ロケの段取りも、ディレクターの使い方もチーフADの都合で決められる。忙しいだけで楽な仕事だ。これは天職かと思ったが、もっと楽な仕事をしている人たちを見つけた。

会議に来て喋っている局の人ではない人がいた。仕事に役に立つような話ではなく、身の回りで起こったくだらない笑い話だ。その人達は構成作家という人たちだと知った。
台本を書いて持ってきて、ディレクターに厳しくダメ出しをされている人たちというのが僕のイメージだったのだが、この人達は台本など書いてこない。来ないどころか最後まで書かないこともある。なんと楽な仕事か。

この楽な仕事を僕もやりたいと思うのは当然だろう。でも不安があった。ADを辞めたら食えなくなるのではないか。当時は6万円になっていた固定給もなくなる。

作家のO岩さんはベンツに乗っているが、S村さんは汚いジャージを着ている。作家によって格差があるのか、貧富の差がすごいのか。まあ。考えてもしょうがない。なってみた。なったと宣言したら、ADをやっていた番組がまず仕事をくれた『ぴったしカン☆カン』である。それぞれ新しい番組を立ち上げていたO橋DとS山Dも、仕事をくれた。だから僕は、構成作家になってすぐに3本もの番組を持つことができたのである。

テレビ番組のイメージ
構成作家になってすぐに3本の番組を持つことができた

「テレビは時代の半歩先をやる」これは師と仰ぐ大将(欽ちゃん)の教えである。でも時代の半歩先は年令を重ねるとわからなくなる。だから、この仕事は40歳くらいで廃業だろうと考えていた。でもズルズルとやってきた。

30代後半、報道の番組を面白くしたいと思った。先輩作家のH野原さんに誘われて、報道特番をやった。どんどん歳を重ねていった。

ワイドショーがつまらなくて嫌だった。PのI川さんと、Y田さんが、ワイドショーではない帯番組を作ろうとしていた。ワイドショーのように人々の興味関心に寄り添った報道ベルト番組を作れると思いついた。同じことをPのY崎さんも考えていた。
本で執筆したいことがあった。N林さんと知り合いになった。『切られ与三郎』みたいなのも書いてみたいなと思ったら、川中美幸さんで実現するべくM宅さんが動いていた。
ドラマなどにも興味が出て、好きな山田太一さんの『想い出づくり』『ふぞろいの林檎たち』を繰り返し見ていたら、K島さんに、2時間ドラマを依頼された。脚本は結局ボツになったが望外の報酬を頂いた。
Webメディアとネット放送は、大学で研究しているF本教授に誘われたが、これは全く金にならない。

仕事はたいてい向こうからやってきた。そんなこんなで、作家になって44年、食うには困らなかったが、今は糖尿病で困っている。

次回は脚本家の井出真理さんへ、バトンタッチ!

一般社団法人 日本放送作家協会
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。

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