テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
連載第58回は、萩本欽一さんの萩本企画に所属する放送作家、荒木美子さん。
放送作家の先生が栄養源
「放送作家ってどうやったらなれるの?」「えぇーっとー……」。
不意打ちにされていつも困る質問です。リレーエッセイで前出された皆さんのきっかけもそれぞれで、大変面白く拝読しました。私はバラエティー番組ADからの転身組です。
遥か彼方の女子高生時代。雑誌an・anで「ハウスマヌカン」などの流行語を生んだ人気連載『女の職業』がクラスで話題に。テレビ局で働くタイムキーパー(TK)に憧れて上京しました。
就職が放送大学のTKに決まった数日後、担任から「明日、TBSの3ロビで面接があるから行って」(※3ロビ=旧TBSの3階にあった喫茶店)と言われるがまま行くと、番組のAP(アシスタントプロデューサー)さんが待っていました。30分程の面接後……私の将来がTKからADに変わっていました。
翌週、当時“視聴率100%男”と称されていた、萩本欽一さんの「欽ちゃんの週刊欽曜日」の収録スタジオで汗していました。あの頃のテレビ界は、むさ苦しい男(失礼m(__)m)だらけの現場でした。
「お茶の間に届ける笑いを作っているのだから、現場に女の子がいた方がいいんじゃない?」。欽ちゃんが言ったのか、プロデューサーの発案だったか?は今となっては定かでありませんが、その一言により、前例がまだない女子ADになってしまいました(お金の話がまだ出てきませんが、壮大なフリではありません)。
AD時代の記憶は、四六時中眠かった。楽しみといえば、放送作家さんとの会議や打ち合わせ。その理由は、美味しいものが食べられるから。薄給のADにとってまさに栄養源。
テレビ局にはお金がいっぱいあって(お金でました!)、会議には本番よりもお高い仕出し弁当が出ました。祝!高視聴率となれば……うな重♪
今と違って作家は会議後、打ち合わせの流れでDとADがいる中で台本を書きました。打ち合わせで絵空事のように聞こえていた事が形になってゆく過程は、作家になってから大いに役立ちました。台本が出来るまでの間ADは“間を読んで”出前の注文をします。「長寿庵」なら上かつ重、赤坂の名店「津々井」ならテキ丼とマルセイユ鍋もOKの時代でした。
テレビはやめられない
1987年。欽ちゃんは30分のレギュラー番組1本と単発番組を残し、一旦テレビを辞めます。一介のADだった私は「自分もテレビを辞めよう。お世話になった欽ちゃんにご挨拶に行かなくっちゃっ!」と身の程知らずな勘違いをします。欽ちゃんの家に行くと決めてから、悩みに悩んだのが“手土産”(今ならわかる、悩むのはソコじゃない)。
「お金持ちの人って何を持っていったら喜ぶんだろう?」。ADとして、すっかり欽ちゃんイズムに染まっていた私は、またまた大きな勘違い。[喜ぶ=ウケる]。
今や都市伝説化している(?)長~い番組の稽古中、欽ちゃんは好んで食べるお茶請け的なお菓子がいくつかありました。その中で、ひときわ異彩を放っていたのが『味噌ピー』。「これだっ!!」奮発して3個! 紀伊国屋でも成城石井でもない町のスーパーで購入。
無事に欽ちゃんとサシでご挨拶し終えると、事務所の方が「大将(欽ちゃん)から味噌ピーの伝言です。よしこ、俺はスターだぞ!」この一件で萩本企画の所属になっちゃってました。
そんなこんなで放送作家になり、なんとか切れ間なくお仕事を頂いておりましたが、6年前、実家にUターン。今は新潟を拠点にしています。リモート会議、テレワークが日常になるちょっと前ですから、急なDからの呼び出しも新潟に帰ったら出来ないなぁ、作家はほぼ引退だなぁと覚悟しました。大量の引っ越し荷物が実家に届いた日。「週刊欽曜日」でDだった方から数年ぶりに電話「お久しぶり。新番組頼みたいんたけど……」「えっ!?」。
覚悟の引っ越しから3日後、赤坂を闊歩していました。約2年半、週2回の新幹線通勤を続けました。自腹ですww(人生の転機に何かが起こる……テンドン?!)
一方、新潟ではローカル局とCATV局で3本の新番組を立ち上げ、現在放映中です。新潟ほどの地方局では番組制作費に“放送作家枠”などなく大抵はボランティア価格。在京局との大きな違いに“放送作家の存在価値”も。
情報番組を初めて自社制作したいと依頼された時のこと。上手下手も知らないスタッフを率い、手始めにパイロット版を制作。社内試写会では狙い通りに笑いもとって大成功!と思いきや、社長のご感想が「このレベルでは毎週大変だから、そんなに面白くなくていい」ズルッコケッ。
面白い番組が作りたい!視聴率を取りたい!――そんなテレビマンの熱意や執念の中でしか放送作家は生存できないのかもしれません。
次回は脚本家の大河内聡さんへ、バトンタッチ!
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。