ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第18回は、関西エリアを中心にリフォーム事業を営む、株式会社ナサホームの江川貴志社長にお話をうかがいました。

江川 貴志さん
株式会社ナサホーム 代表取締役

江川貴志さん

1961年1月、大阪生野区に生誕。住吉高校から1浪を経て広島大学に進学、土木工学専攻。卒業後、鴻池組に入社。土木部門に配属され宅地造成など現場監督として仕切る経験を積むも、小学生の頃からの起業の夢を追って30歳で鴻池組を退社。その後、不動産会社で不動産営業の経験を積んだ後、35歳でナサホームを起業。大阪、兵庫など関西エリアを基盤に愛知にも進出するなどリフォーム業界で躍進を続ける同社を率いる注目の起業家。

株式会社ナサホームホームページ

1996年不動産仲介を目的に設立、2000年よりリフォーム事業に本格参入。「チラシ反響営業」や利便性の高い駅前やショッピングモールなどにショールームを展開するなど差別化された取り組みで、関西エリアで実績No.1の独立系リフォーム事業者に成長。2010年には本社を梅田阪急ビルオフィスタワーに移転、同時に梅田リフォームスタジオを開設。2011年には水廻り専門のみずらぼ事業をスタート。最高品質のリフォームを提供するナサホームと水廻り専門のみずらぼの2つのブランドで躍進する注目企業。

「絶対金持ちになるんだ」という思いが起業の動機に

この連載では起業家の皆さんに、なぜ起業を目指されたのか、どちらかと言えば起業されるまでに重点を置いてお聞きしています。ナサホームは独立系リフォーム業者として関西エリアでは揺るぎのないポジションを占められ、近年では愛知にも進出、さらに今後は関東への進出も視野に入れられている、まさに飛躍期にある訳ですが、そもそも江川社長が起業を目指された動機、どんな経路で起業されたのか、そうしたことをお聞きしたいと思います。最初にどんな少年だったのか、教えていただけないでしょうか?

江川 生まれたのは昭和36年1月、大阪は生野区で、3人兄弟の末っ子でした。兄弟といっても長兄とは11歳、次兄とは8歳離れて生まれたので、両親からすれば遅く生まれた子供という感じでしたね。父は42歳でした。

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その頃、父は鉄工所を経営、鉄工部品や積層乾電池の製造装置などを作っていました。従業員も100名くらいいたようで、生野区の長者番付にも名前が載るような羽振りでした。大正生まれで、もともとは都島工業高校を出て大阪機工に就職した機械の設計技師だったのですが、陸軍に召集されて現在のミャンマー、ビルマ戦線で爆撃機の搭乗員などしていたようです。よく聞かされた話ですが、そこで英国の戦闘機スピットファイアーの編隊に遭遇、敵機一機を落としたようですが、父も肩を撃ち抜かれて、そのまま野戦病院に入院し除隊したようです。

日本に戻ってからは人脈をたどって機械のブローカー、そこから鉄工所を興し、もともと技師でしたので、現在のパナソニックと共同で積層乾電池の製造装置の特許を取ったりして仕事を拡大、一代で長者番付に名前が載るまで成り上がった、それが父の素描ですね。

ただ、波乱万丈というか、昭和40年、田中角栄の山一証券救済などで有名な40年不況が日本経済を襲うなかで、父の会社も倒産してしまいました。私は幼稚園からもうすぐ小学校に入学する、そんな時期でしたね。真新しい学習机やランドセルがあったので、2月か3月だと思います。家に裁判所の執行官がやってきて家具や家電製品に、彼らが差押えの白い紙を貼っていったのです。その文面を現在でも覚えています。『差押 本物件は差押物件につき無断で処分することを禁ず』、なぜ覚えているかと言えば、随分長い間、その紙が貼られていたので、私は毎日その紙の文章を眺めながら育ったようなものだからです。

それからは、父が居留守を使い、母が電話で嘘をつく、とか、夫婦喧嘩だとか、父が誰かを怒鳴る声だとか、それが日常の光景になっていきました。

父は結局、一人で鉄工所を営み機械部品の加工などを始めました。

ただ、貧乏でしたね。小学生になって、友達が持っているものが欲しくても、母から「うちは貧乏だから我慢しなさい」と言われると、子供心に、貧乏はいやだな、俺は絶対金持ちになるんだ、そう思ったものです。笑われるかも知れませんが、それが変わらずにずっと抱いていた起業への動機ですね。

大変ご苦労されたのですね。

江川 苦労と言えば苦労かも知れませんが、長兄や次兄の方が我が家が羽振りの良い時代を知っていた分、喪失感も大きかったと思います。私は小学生の頃は、まあ普通、それほど成績の良い方ではありませんでしたが、長兄はオール5、次兄もそれに近い成績の優等生でした。長兄はその頃、もう高校生でした。大阪の人間にはよく分かる感覚だと思いますが、天王寺に通っていました。誰もが認める文句のない進学校、そんな高校です。

ただ、それもきっかけになったのか、高2からは学校にも行かず、競馬に通うような少し無頼な生活になりました。次兄は中学生でしたが、その兄に連れられて一緒に競馬場に行く、そんな季節だったようです。

私の転機は小学校6年生の頃でした。それまで、あまり取柄のない子供で勉強も普通、スポーツも普通、自分自身に自信を持てずにいたのですが、ある日、算数の成績順に席替えをする、という話になったとき、私は40人のクラスで2番目の席になったのです。急にやる気に火が点いたのか、勉強が楽しくなって、次の席替えでは1番になりました。やる気になって、頑張って、結果が出る。

こうした経験があって、中学生になった頃には勉強に前向きに向き合えるようになりました。中学では中間、期末と試験のたびに席次が出ます。それも励みになりました。

小学生の頃に思っていた、いつか起業するんだ、という夢をますます意識するようにもなりました。自分を冷静に見つめられるようにもなりました。起業家になるために自分に何が欠けているのか、勉強も運動もできていつの間にかクラスの中心になっているような友達に比べ、自分には人望も能力もない、ではどうすればいいのか、そんなことを考えていましたね。

梅田リフォームスタジオ
子どもの頃から起業を夢見た江川社長が1996年、35歳で起業したナサホーム。2010年には本社を都島区から梅田に移転、翌年に「梅田リフォームスタジオ」(写真)を開設

「人の2倍の結果を出すのなら、人の10倍努力しよう」

高校は進学校の住吉高校、大学は広島大学に進まれたのですね。

江川 そうです。高校は住吉高校、自由な気風の私服通学の高校でした。中学ではハンドボール部だったのですが、友達と一緒に高校ではラグビー部を選びました。もっとも高2の時点で、もっと自由にというか遊びたい気もあって部活は辞めてしまいました。勉強も熱心ではなかったですね。

高校では同級生たちが、規律もなく自由で少し浮かれて見えて苛立っていた気がします。校風に馴染めなくて、一匹狼的な立ち位置でした。

私たちは現在のセンター試験の前身になる共通一次試験のまさに初年度の学生でした。現役では国立の広島大学を一校だけ受験しましたが、1年目は見事に落ちました。広島大学を選んだのは、偏差値的に丁度いいということと、結局浪人して再度受験するのですが、2次試験の科目が苦手科目の比重が軽かった、ということですね。ただ、もっと言えば高校でこの先生いいなあ、と感じた何人かの先生が揃って広島大学のご出身だった、それも大きいかも知れません。広島大学は広島高等師範の伝統もあり、良い教育者を出されていたのです。

さて、浪人という話ですが、当時住吉高校の同級生のほぼ半分は浪人だったこともあって、それ自体はまあ仕方ないという感じでした。相変わらず家の経済状況は良くはありませんでしたが、長兄は金沢大学、次兄は大阪府立大学と進学はしていましたし、大学には行かせてもらえる感じでしたが、親に対して心苦しさがあったのは覚えています。

予備校は、予備校に名門もなにもあった話ではないかも知れませんが、試験を受けて「そこで1年普通に頑張れば京大、阪大も間違いない」と当時言われていたYMCAの土佐堀校に通うことになりました。高校の同級生は地理的に近い阿倍野校や堺校に振り分けられましたので、奇跡のように感じましたね。

予備校の1年は自分で言うのも何ですが、よく勉強したと思います。朝起きてから夜寝るまで、机に向かうという生活でした。自分で限界に近い生活、また努力をしているという実感がありました。ただ、それでも成績が努力に比例して上がるということにはなりませんでした。しかしそれは私にとっては得難い経験でした。中学、高校と起業家として成功するために自分に欠けているものは何か、それを考えていたわけですが、徹底的に努力してなおこの結果という事実から、私は「人の2倍の結果を出そうと思うのなら、人の10倍努力しよう」と決めたのです。

予備校時代、一緒に切磋琢磨した仲間、その一部は目標とする阪大、京大に合格しました。関西ですから、私立は関関同立を受けるわけですが、多くはそこに合格し、私も同志社などに合格しましたが、国立でもあり現役でも受けた広島大学に今度は進むことになったのです。

大学では建築科志望でしたが、残念ながら1年目の成績で土木学科に廻されました。奨学金ももらっていましたが、バイトもよくしていました。出前のバイトなどもしましたが、真面目に取り組んでいたので、いつでもまたおいで、とか店の方に言われるような学生でしたね。1、2年生の頃は広島市の中心部に住んでいましたが、3年から工学部が東広島市に移転になりました。当時は山の中にポツンとできた大学、という感じでしたね。私はお金もなかったので、大学から5キロくらい離れた農家の2階の納屋に下宿しました。家賃はその家の息子さんの家庭教師で、田植えの季節には田植えを手伝いました。夏には蛙の合唱、秋は稲刈り、冬は積雪、自然一杯の今思えばいい経験でしたね。

理系でしたので、4年生になると研究室に配属され、今度は卒論のための実験で忙しかったですね。

ゼネコンでの安泰を選ばず、転職を決意

卒業され就職は鴻池組だったのですね。そのまま大企業でサラリーマン生活を30歳まで経験されたとお聞きします。寄らば大樹の影ではありませんが、それでも少年時代からの夢を貫かれようとされた、その情熱の出所など教えてください。

江川 確かに鴻池組は大企業でした。大阪では有名な鴻池財閥の流れを汲むゼネコンで、社員も当時4,000名くらいいたと思います。土木専攻でしたので、私は土木部門に配属され、新人研修を終えると宅地造成の現場に配属されました。森を伐採し、山を削り、谷を埋め住宅地を作る仕事です。仕事自体は性に合っていたのか、上司にも先輩にも可愛がられました。その上司が現場を替わると指名がかかってそのままその上司の現場に移る、そんな日々でした。

厳しい、男らしい現場でしたが、会社全体は確かに安定した大企業で、ここにいれば一生安泰だという雰囲気はもちろんありましたね。その後、不動産会社など転職すると、世間の厳しさ、シビアさ、も経験しましたので、世間が「寄らば大樹」と言う理由も分かります。

ただ、なんでしょうね。やはり、子供の頃抱いた、起業するんだ、という夢、お金持ちになるんだ、という夢、その夢を叶えたいという情熱の方が強かったのだと思います。

奥様の反対などはなかったのですか?

江川 そこはなかったです。家内とは京大に行った予備校時代の友達の紹介で縁ができたのですが、家内自身がピアノ教師で手に職を持っていた、ということもありますし、付き合っている頃から、いつか起業する、という話をしていました。家内の実家を含め、家族はみな私の夢を理解してくれていました。

鴻池組ももっと早く辞めるつもりでしたが、お世話になった上司や先輩に義理があって、それで30歳までとどまった、そんな感じです。鴻池組を辞めるときには随分引き留められましたし、もう娘もいたのですが、踏み切りました。

今から考えると、バブルは既に弾けつつあったのですが、起業のしやすさも含め、不動産業界に魅力を感じていました。鴻池組で働きながら宅建の資格も取得していました。

それで、就職情報誌で3社ほど、面接先を決めて、そのうちの1社に入社したのですが、この会社が今でいうブラック企業でした。社長とその弟の専務のパワハラがすごく、要領の悪い社員が標的になってすぐに退職していく、そういう会社でした。私はそれなりに数字を上げ社長にも可愛がられていたのですが、給料の遅配もありましたし、結局は限界を感じ、会社を辞めました。その退職は、少し衝動的な退職でしたので、次の日から再就職活動となります。当時は戸建て住宅に住んでいましたので、世間体もあって、毎朝以前と同じようにスーツを着て車で家を出て、中央区の公園沿いの木陰に車を停めて、就職情報誌を開いてめぼしい会社に履歴書を送る、などしていましたね。そこでは、外回りの営業マンだと思いますが、多くのサラリーマンがやはり車の中で時間を潰したり、ずっとベンチに座っていました。みんな同じだな、という気持ちと、俺は違うぞ、負けたくない、という気持ちが混在していましたね。

みずらぼ京都桂南店
ナサホームは水廻りリフォーム専門店「みずらぼ」も展開している。写真は桂南店(京都市南区)のショールーム

不動産仲介業で自信を得て、ついに起業

そこで日住サービスに入られ、35歳で起業されるのですね。

江川 そうです。日住サービスでは最初、建設部に配属になりましたが、お願いして不動産営業に廻してもらいました。そこでは圧倒的な数字を上げようと必死に働きましたね。不動産仲介の醍醐味にも触れました。自分の話の組み立て方一つで売主にも買主にも満足してもらえる、仕事が面白くて仕方ありませんでした。3カ月目からはトップクラスの成績になり、1年ほどで店長を任せてもらえるまでになりました。

不動産仲介という仕事での独立も夢ではない、それで35歳、遅すぎる起業でしたが、9月に会社を辞め、起業の準備に入りました。11月に宅建免許が下り、12月に営業を始めたのです。

不動産仲介から仕事を始めて、最初はとても苦労しました。そんな時は、ナサホームという娘の名前を冠した会社をそう簡単に潰してたまるか、と歯を食いしばりました。

仕事については物件を掲載したチラシを2,000枚くらい刷って物件の周辺に配って歩く、乏しい反響のなか、一つ一つの仕事で信用を勝ち得ていく、その繰り返しです。

ただ、浪人時代から、人の2倍の成果を得るには人の10倍努力する、という気持ちがありましたので、前向きに頑張りました。

リフォーム事業に進出したのは、そのような仲介を続けるなかで、買主のニーズがそこにあるという実感を持ったからです。

鉱脈にめぐりあった、という感じですね。そこから紆余曲折はあったのだと思いますが、現在の躍進がある、ということでしょうか。最後にお父様は起業を喜ばれたのでしょうか?

江川 父は私が起業を果たした翌年の1月10日に旅立ちました。その前に父に会社のために借りたオフィスを見せることができました。親父がどう思ったのか分かりませんが、最後の最後に親孝行ができたのかな、と思っています。

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