700人以上所属する日本放送作家協会(放作協)がお送りする豪華リレーエッセイ。テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家、そして彼らと関わる様々な業界人たち・・・と書き手のバトンは次々に連なっていきます。ヒット番組やバズるコンテツを産み出すのは、売れっ子から業界の裏を知り尽くす重鎮、そして目覚ましい活躍をみせる若手まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜くユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず!
連載第213回は、シネマリポーターとして、また、オールディーズの解説でも活躍するエッセイスト・島敏光さんの大物芸能人との秘話。

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それはラジオの黄金時代……

島敏光さんの写真島敏光
エッセイスト タレント
東京作家大学講師

電話のベルがトルルルと鳴る。
妻が受話器を手に取り、心持ち怪訝そうな顔で
島倉さんという人から
と私に告げる。
島倉という名前に心当たりはない。
私は受話器を受け取り、「はい、もしもし」と相手の出方を探る。
島倉です

私が、「えー」と答え、「どちらの島倉さんでしょうか」と尋ねる前に、電話の主は美しく澄んだ声で
島倉千代子です
とフルネームを告げる。
私はそれを聞いて思わず「ああっ!」と上ずった声を上げる。

一瞬、目の前がまっ白になり、次第にその数日前の出来事がまざまざと甦って来た……。

1980年代の初頭、私はローカル局のラジオ番組でパーソナリティーを務めていた。
確かタイトルは「歌謡ホットスタジオ」。
東京で収録して様々な局でオンエアをする月~金の帯番組。
毎回、ゲストを招いてトークをくり広げる。
ラジオの黄金時代。
東京では放送されないマイナーな歌謡番組でも、有名無名の様々なゲストが次から次へとやって来た。

その中に1人が「この世の花」「東京だョおっ母さん」「からたち日記」等のヒット曲で知られる昭和を代表する歌手の島倉千代子だった。

彼女は収録予定の時間を15分程過ぎた頃に、うつむき加減で築地のスタジオにやってくると、開口一番
遅れて申し訳ありません
と深々と頭を下げる。

10分や20分のことで、当時の大スターに頭を下げられるのも困るので、居合わせた番組ディレクターは「いえいえ、そんな」などと口ごもっている。
「こんなこと初めてなんです。道が混んでしまって、でも、そんなこと、言い訳になりませんよね」
とさらに神妙な面持ちで謝罪の言葉をくり返す。

その時、私は……。
今想うと、なんであんなことを言ってしまったのか、身の毛もよだつ。
当時の私は間違いなく無礼者だった。
まだまだヒヨッコのパーソナリティーが、業界の大先輩に向かって
「いえいえ、そんなこと、お茶の一杯でもおごってくれれば済むことですから
と軽口をたたいたのだ。

私としては、本当にお茶をごちそうしてもらおうと思った訳ではなく、軽いジョークのつもり。その場をなごませようという意図もあった。しかし、相手を見誤った。
日本歌謡史に大きな足跡を残したお千代さんは「またまたそんなァ~」と受け流すような人ではなかった。

彼女は私の顔を真正面からじっと見つめ、
はい、そうですね
と真摯に対応する。
今度は私がしどろもどろになり、「いえ、別にそんな……」などと口ごもる。

ティータイムのイメージ軽いジョークのつもりで「お茶の一杯でもおごってくれたら」と、業界の大先輩に向かって軽口をたたいた

そんなドタバタもあったが、番組はつつがなく終了し、一同ホッと胸を撫で下ろす。
出演者、スタッフが口々に「お疲れさま」とあいさつを交わしていると、島倉千代子は私に近寄り、
あのー、電話番号を教えていただけますか?
と尋ねたのだ。

私は「えっ!」と言ったきり、絶句していると
「時間がある時にぜひお茶を」
とたたみかける。
スマホはもちろん、携帯電話さえも流通していない時代。
私は自宅の電話番号を伝えた

お茶のために電話をして下さいという意図は全くなかったが、断るという選択肢もなかった。それはそれで失礼な気もした。
私の伝える番号を、彼女は小さな手帳にメモしてスタジオを後にした。

デパートの屋上でまさかの展開に……

その数日後、本当に島倉千代子から電話がかかって来た。
私はすぐに「あの時のことだ」と気づいたものの、
「あっ、どうも」と答えるのがやっとだった。
一言二言言葉を交わした後、島倉さんは
今度の5月5日にお時間を作れますか?
と、何とも具体的な質問を投げかける。

5月5日はこどもの日。
その日は幼稚園に通う息子と保育園に通う娘を連れ、夫婦でどこかの公園にでも行こうという約束になっていた。
私1人が昭和の大スターとお茶を飲んでいる訳にはいかない。
その旨をやんわりと伝えると、
「その日は久し振りに休みが取れそうなので、ぜひ先日のおわびをしたのいので、奥様とお子様もご一緒にいかがでしょう?
と思いがけない提案。

大久保にあるわが家から、バスで数分のところにある伊勢丹の1階の喫茶店でお茶とケーキを楽しんだ後に、屋上の広場で遊びましょうと、これまた具体的なアイデアを瞬時に提供する。
そうなるともう「はい、ありがとうございます」という以外に言葉は見つからない。

私と妻、幼い2人の子供と島倉千代子という不似合いな5人が、伊勢丹の喫茶室に座っている。
島倉さんの隣の椅子にはとてつもなく大きな紙袋が置いてあり、その中から重そうな箱を取り出す。
「これはお坊ちゃんに」
確か当時、人気だった機動戦士ガンダムのフィギュアだったのではないかと記憶している。

さらに「これはお嬢さんに」と言って、可愛らしい人形を差し出す。
子供たちは目を丸くしながら純粋に喜んでいるが、幼いながらに空気を読んでいるのか、妙に大人しい。若い夫婦もまたただただ恐縮するしかない。

そして……。
これは奥様に
と言って、2つ折りにされた和紙をそっと妻の前に差し出す。
これはもしかしたら……。
私の頭には「ご祝儀」「心づけ」「お車代」などの言葉が浮かぶ。
妻もまた当惑している。「それは受け取りづらい」と顔に描いてある。

「いえ、私は……」
妻なりに何とか断ろうとしているが、島倉千代子は全く動じず、
どうぞ、開けて下さい。奥さまのことを思って探したんですよ
と、謎の言葉を投げかける。
どうも現金が入っているという訳ではなさそうだ。

「中を見て下さい……」
妻は「はい」と答え、ゆっくりと2つ折りの和紙をめくるとそこには……。
四つ葉のクローバー!
「まあ、ステキ!」
妻の顔が明るく輝く。
コンサート会場の前に原っぱがあって、そこで探したんです
島倉千代子……何とメルヘンな女性なんだ!

四つ葉のクローバーのイメージ四つ葉のクローバーを探してプレゼントしてくれた

その数年後、島倉千代子は「人生いろいろ」で見事にヒットチャートに返り咲く。
世紀のスターがこの世を去って12年の歳月が流れたが、私の頭の中に浮かんでくるのは、フルバンドを従えて「女だっていろいろ咲き乱れるの」と華やかに歌う姿ではなく、春の草原で独り、四つ葉のクローバーを探す、乙女のような可憐な姿である。

一般社団法人 日本放送作家協会
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。