ベンチャー企業といってもその中身は千差万別。本連載では、さまざまな業界で活躍するベンチャー起業家たちの仕事や生き方に迫ります。第13回は、メール配信サービスなどを通じて企業のコミュニケーション活動を支援する、ユミルリンク株式会社の清水亘社長にお話を聞きました。

清水 亘

清水 亘さん
ユミルリンク株式会社 代表取締役社長

1971年滋賀県生まれ。大阪社会体育専門学校卒業。卒業後、別な業態でのサラリーマン生活や「アクティブニートの28歳」を経て、1999年当時「勢いのある新しい産業」と感じたIT業界へ転職。「郵便がメールに置き換わっていく」激しい流れの中、メール配信サービスが誕生し、立ち上がっていくその渦中で経験を積む。その後、縁あって2002年にユミルリンクに入社。メール配信部門、メッセージング事業の統括者として活躍するなか、2008年に社長に就任。
北欧神話に登場する最初の巨人で天地創造のシンボルとされるユミル、繋がりを表すリンク、を由来とする特色ある社名を持つユミルリンクを、「日本を代表するSaaS」に成長させることを自らの使命とする注目の経営者。

ユミルリンク株式会社ホームページ
1999年7月有限会社として設立、翌年株式会社に組織変更。当初は企業のホームページやwebシステムの制作業務の請負に従事していたが、徐々にwebコミュニティーシステム(web会員管理や掲示板、オンラインチャットシステムなど)の受託開発に合わせ、メール配信システムなどのソフトウェア製品開発などにシフト。2003年からメール配信サービスCuenote FCの提供を開始。企業と顧客、自治体と住民など組織と人々の間をつなぐメッセージソリューション(Cuenote)事業を展開する注目企業。
メール配信システムCuenote FC、SMS配信サービスCuenote SMSやメールリレーサーバーなどCuenoteシリーズなど、主にクラウド上で、マーケティングやコミュニケーション活動を支援するサービスを展開している。リリース以来、多くの顧客に支持されているCuenoteは1800契約を数え、多くの有名企業がそのサービスを利用している。

サッカーに打ち込み、卸業者に就職。そして「アクティブニート」へ

最初にどんな少年だったのか、そんなところからお聞かせいただけないでしょうか。

清水 生まれたのは滋賀県の琵琶湖北西、高島市になります。実家は10代先まで遡れる地主でした。厳格な祖父と祖母、二人とも公務員だった両親のもと弟と一緒に育ちました。

小学生の頃はその地域の子供をまとめていくようなタイプでしたね。活発に外で遊んでいて、川や海やもちろん琵琶湖ですから湖でも、水遊びが大好きな子供でした。釣りも好きでしたね。これは今でも変わらず週末には良く釣りに出かけています。
中学、高校で夢中だったのはサッカーです。滋賀には日本代表に選ばれ、後にスペインリーグでも活躍した乾貴士選手がいた野洲高などがあります。私は県選抜などに選ばれるレベルではありませんでしたが、ポジションはフォワード、左ウィングで最後まであきらめずに走るような選手だったと思います。
高校を卒業して進学先には大阪の社会体育専門学校を選びました。サッカーを続けたかったのと、スポーツが好きでしたので、スポーツインストラクターを目指そうと思っていました。

結局、卒業後は別の道に進まれたとお聞きしています。

清水 現在は違ってきていると思いますが、当時はやはり待遇の問題がありました。全く違う業界に行こうと考え、デパートに家具などを卸している関西の会社に就職しました。
その会社がそごうや西武などデパートでのアロマテラピーの出店展開を始めて、私は日本中を飛び回ってその起ち上げに携わりました。全国各地を廻って、ビジネスホテルに泊まって、現地でパートの採用や教育などにあたるのです。良い経験でした。

ただバブルが崩壊した頃からですね。とても華やかなデパートのその裏側ではコスト削減のため従業員控室では消灯が徹底されていたりして、なにか少し違ったものが出てきた、逆風が吹き始めた、そんな感触がありました。

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27歳から28歳の頃ですかね。結局、これは違うと考え、一度休もうと考えたのです。アクティブニート(笑)と自分では言っているのですが、退職し、実家で1年、子供の頃から好きだったバスフィッシングに興じたり、参加していた地元の社会人チームでサッカーに打ち込んだりしていました。もちろんその1年でという話ではありませんが、そのチームでは5部から始まって、4部、3部、2部、そして1部へと上がっていく過程を経験しました。バスフィッシングも大会にいくつも参加しましたね。

ユミルリンク
従業員の働きやすい環境の整備に注力、開放的なオフィスエントランス

IT産業の勢いと社会の急激な変化、若い人や企業が活躍できる環境

サッカーではなかなかできない経験をされたのですね、凄いです。ただ、アクティブニートと自分で名付けられていますが、厳格な実家というお話で、叱られたりはしませんでしたか? また、28歳で一度休むことに何か焦りのような感情はなかったですか?

清水 実家について言えば、厳格だった祖父はその頃には鬼籍に入っていましたし、両親はどこか私を信じてくれていたのか、何も言わなかったですね。焦りという感情も特にはなかったです。最初からずるずるとアクティブニートでと思わず、1年と決めていたということもあったかも知れません。とにかくその1年は好きなことをしようと思っていました。

で、次に何をしようか、ということですが、1995年にWindows95が、1998年にはWindows98が発売され、もう凄い勢いでIT産業が勃興していく、そんな時代でした。私もこれは凄いな、何か新しいことが始まっているんだな、と感じていました。その渦の中に自分も参加したい、そう考え始めたのです。ちょうど、東京のITベンチャーが大阪拠点を起ち上げようと社員募集をしていました。運よくその起ち上げメンバーとして採用されたのです。

その会社はDeNAなどで有名なベンチャーキャピタリストが出資されていた企業でした。残念ながらその大阪拠点は、うまくいかなかったのではなく、また別の事情で1年で閉鎖されるのですが、メール配信系のサービスを提供していて、とてもいい勉強になりました。
そこでの経験から、やはりこの産業には大きな魅力があると確信し、初めて関西を離れて東京で、やはりメール配信系のサービスを展開していた会社に就職したのです。渦の中心は東京でしたし、とても大きな希望を抱いての上京でしたね。

そこまで突き動かされた魅力ですが、私たちのような若い人間が、若い組織が、サービスの革新性を武器にして、堂々と一流企業に提案に行ける、そして採用される、そこには大きな衝撃を受けました。

インターネットが社会構造を大きく変えようとしている、今までは紙で作るのが当たり前だったパンフレットがWebに、ホームページのサイトに置き換わっていく、これまでは郵便だったものが急速に普及していくメールに置き換わっていく、その変革の激しさのなかで、良い技術を磨き、良いサービスを提供し、しかもそれをマーケティングツールとしてどう活用するか、そこまで目を配った提案をすれば、一流企業がその扉を、少し前までアクティブニートだった自分にも開いてくれる、感激でしたね。