テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家、さらに局のOBまで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず! 
連載第66回は、NHKに勤務しハイビジョンの普及促進、情報の海外発信や『20世紀放送史』の編纂などに携わってきた、一般社団法人 放送人の会理事の千葉邦彦さん。

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ニューヨーク

千葉 邦彦さんの写真
千葉 邦彦
エッセイスト
日本放送作家協会会員

1991年8月、私はニューヨークに単身赴任した。当時の私が世界の中心だと信じて疑わなかった場所だった。赴任する3年前、初めて訪れたニューヨークの印象を、雑誌にこう書いている。「ニューヨークの夜は、コーヒーの粉をまぶしたような独特の光沢のなかにある」。ロマンチックである。

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別の折には、「巨大な配線図にも擬せられるニューヨークはまた、そのような配線図からこぼれ落ちた世界、配線網を摺り抜ける人々のネットワークを許容している」と理屈を書いている(いずれも季刊『新 放送文化』(日本放送出版協会)所載)。

赴任に至る前段を語っておこう。1989年夏から2年間、私はNHKハイビジョン特別プロジェクト経由で霞ヶ関に勤務していた。そこでの勤務を満了した同じ日、赤坂のMICO(国際メディア・コーポレーション)本社に仕事の場を移した。MICOは、テレビ番組の国際共同制作、映像ソフトの購入・販売などを事業目的として、商社、銀行、電機メーカーなどが出資して設立した会社であった。

就労ビザが下り、赴任先である現地法人の社長とともにワシントン経由でニューヨークに降り立った。大好きな場所、新しい仕事! 私の気持ちは躍っていた。アパートが決まるまでのあいだ仮住まいとしたホテル、伝統あるウォルドーフ・アストリアからロックフェラー・センターにあるオフィスまでの道を、ニューヨーカーに負けないくらい背筋を伸ばし、早足で通勤した。意気揚々というのはこういうことだったと思う。家族と一緒に来られなかった寂しさを胸の奥にしまい、これから始まる新しいメディアビジネスの一翼を担う意欲に燃えていた。

職場を構成する人たちの人種、宗教、雇用形態、職業意識などは驚くほど多様だった。日本の常識はそのままでは通用しない。内も外も、日常の全ての場面がこの街、特有の緊張感に満ちている。限られた紙幅ではとても語れない多くの貴重な経験をし、それが私を変えた。

振り返れば、ハイビジョン特プロに移って出身単産のしがらみから解き放たれ、霞ヶ関では官庁の仕事のやり方を学び、それと同時にオールジャパンでの取り組みの波に揉まれた。そして今度は異国でのビジネスの洗礼を受けたことで、私のなかの“スタンダード”はいやがうえにも大きく変化していき、“日本”とズレていった。ずっと後の時代に日本でも当たり前となった考え方を早く学び過ぎた、のちにそう評された。

NYのロックフェラーセンターイメージ
1991年8月からニューヨークに単身赴任。ニューヨークの街を意気揚々と早足で歩いた
写真:Rafael Xavier/Shutterstock.com

駐在を終えた後もニューヨークには仕事の縁があり、テレビ国際放送の立ち上げやメディア動向調査などで何度か滞在する機会を得た。2001年8月下旬から、放送博物館リニューアルのために行った先進事例調査(ワシントン、ニューヨーク)のときは、「9.11」の直前に帰国した。当初の出張計画は9月上旬からの日程だったので、その通りに出張していたら、間違いなく「9.11」に遭遇していたことになる。放送文化研究所長の指示で出発が早まったために、難を逃れたのであった。

以来、ニューヨークに行く機会はないまま、瞬く間に20年あまりの月日が過ぎた。そろそろ行ってみたい。かつて住んでいたアパートに近いセントラルパーク、メトロポリタン美術館を起点に、カーネギー・ホール、ロックフェラー・センター、市立図書館、リトル・イタリー、チャイナタウン、ウォール・ストリート、バッテリー・パークまで、昔のようにぐんぐんと歩いてみたい。仕事に関することもあるけれど、それよりも、若い頃の自分がいわば文学的に愛したニューヨーク、そのひとつひとつを丹念に綴ってみたいと思うのだ。

放送の歴史

話は変わって、2020年の暮れ、放送人の会の中心的な活動である「放送人の証言」プロジェクト・収録チームの打合せをもった。「放送人の証言」は放送の歴史に関するオーラルヒストリー(口述による歴史記録)として貴重な資料のひとつで、プロジェクトは東京大学情報学環やNHK放送文化研究所の協力を得て進められてきた。

チームに新しく加わった私の最初の仕事は公益財団法人放送文化基金から受ける助成金の申請であった。この貴重な助成金(注・現在は賛助金)によって、収録活動は支えられている。「証言」の取り組みがスタートしたのは1999年。放送(おもにテレビ)の歴史を築いた先人たちへのインタビューを小型ビデオカメラで収録し、目標としていた“草創期から成長期にかけて活躍した200人”は既に達成した。

この日の打合せでは、今後はテレビ発展期以降の人たちも対象に収録を続けていくことを確認し、その候補者について議論した。参加したのは私の他に6名。番組制作や取材の経験が豊富で、今も何らかの現場で活躍している人たちである。私に最も年齢の近い人で73歳、最年長は85歳。皆、驚くほど元気だ。

私の場合は、NHK放送文化研究所時代に携わった『20世紀放送史』(2001年刊行)の編集・執筆、NHK放送博物館に於ける歴史展示(=放送史と放送文化財の対応を分かりやすく整理して見せる仕事)や放送文化講演会の実施とその記録公開などの経験を生かすことが求められているのだと認識している。

実際、放送史上重要な人物の証言収集も行った(注・放送文化研究所には、長年月にわたって収録された、実に600人に及ぶ証言の記録が保存されている)し、戦前の放送関係資史料の発掘も経験した。先の戦争の終結を告げた玉音放送の原盤をめぐる宮内庁との打合せで皇居にも赴いた。宮内庁とNHK放送博物館それぞれに原盤複数枚が厳重に保管されているのだが、双方の盤の現物を前に意見交換を行い、全体像を確認したのであった。そうした仕事をしていると、過ぎ去った時間のなかに、たとえば終戦の日前後に引き戻されるような感覚に囚われたりするものである。

資史料の発掘をしていて、不思議なものに遭遇することがある。2000年、放送史研究者である大先輩とともに大阪・羽曳野(はびきの)倉庫(旧放送所)で資史料の山と格闘していたときのこと、社団法人大阪放送局の経営資料のなかに身を潜めている薄い和紙の便箋を見つけた。それには淡い青色のインクで、「このこと、奥様はご存じかしら。一度、奥様にお会いしたいわ。ふふ、私っていけないコね」などとしたためられていた。

封筒は見当たらず、便箋には宛て先も差出人の名前も書かれていない。放送台本の下書きか放送用の小道具の可能性もあるが、戦前に不倫を題材としたラジオ劇があったとは考えにくいから、これは創作物ではなく、現実の恋文であると推察される。書き手はおそらく外部の女性、受け取ったのは職員の男性で、家に持ち帰る訳にはいかず、かといって捨てる決断もできずにいるうちに資料に紛れて残ったのであろう。生々しい文章に往時の放送局の人間模様の一端を垣間見た。放送を支えていたのはまさしく生身の人間だったのだと、愛おしささえ覚える。学問的な価値は見出せないとしても、このような放送人の私生活を語る資料も得がたいもののような気がする。

便箋のイメージ
資史料に紛れていた便箋を発見したとき、その生々しい文章に当時の放送局の人間模様の一端を垣間見た

ところで、暮れの打合せは千代田放送会館(東京・紀尾井町)1階ラウンジの奥まった場所で行ったのであるが、途中、見えない何ものかが私たちの傍らにいるような感覚に襲われた。収録した200人のうちで既に鬼籍に入られた人、あるいは収録の機会なく旅立った人がそこにいて、私たちを見守っていたのかも知れないと言ったら、神秘的過ぎるだろうか。

メディア人フォーラム

今、私が取り組んでいることのひとつに、「メディア人フォーラム」の活動がある。「メディア人フォーラム」は「博物館・美術館・図書館・資料館・大学・研究機関・アーカイブ等から放送・通信・新聞・出版・広告・コンピュータ等に及ぶ多種多様なメディア各分野の関係者が広く交流することを通じて、共有しうるテーマや目標を見出し、それを追求・達成するために、融合的な活動を行うことを目的とする」任意団体で、異業種・同業種のメンバーが折に触れて集まっては談論風発している。「人、仕事、場所」といった財産を膨らませていく母体となるこの団体を、近く一般社団法人化する予定である。

たとえば、私が参加している学会・団体の活動(→プロフィール欄を参照)を、フラットな視線で、緩く繋いでいくようなこともできたらと考えている。そして、何よりも若い人たちの才能と活力を生かす場と機会を創出する手助けをしたい。意欲的な人々の参加を得て、個性的で実りある活動を展開していきたいと思っている。関心をもたれた方は、下記のメールアドレスに、是非ご一報ください。

メールアドレス:superkunikotan2021@gmail.com

次回は放送作家の田中到さんへ、バトンタッチ!

一般社団法人 日本放送作家協会
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイブズ」などさまざまな事業の運営を担う。

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