テレビ、ラジオ、動画配信も含めて様々なコンテンツの台本や脚本を執筆する放送作家&脚本家が700人以上所属する日本放送作家協会がお送りする豪華リレーエッセイ。ヒット番組を担当する売れっ子作家から放送業界の裏を知り尽くす重鎮作家、目覚ましい活躍をみせる若手作家まで顔ぶれも多彩。この受難の時代に力強く生き抜く放送作家&脚本家たちのユニークかつリアルな処世術はきっと皆様の参考になるはず! 
連載第35回は、アニメや戦隊ものの脚本を数多く手掛けるベテラン作家の渡辺麻実さん。

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横浜に生まれて

渡辺麻実さんの写真
渡辺麻実(わたなべ・まみ)
脚本家
日本放送作家協会会員

そんなハイカラな地域ではない。横浜と言っても「桜木町」。横浜港のすぐ傍の、当時は官庁街で現在の「みなとみらい」とは真逆な素っ気ない街だった。いいことと言えば、徒歩5分のところに「山下公園」があったくらいか。今では綺麗になっているが、当時は本当に小汚い「赤レンガ倉庫」、山下公園の欄干から海を覗くと油や壊れた自転車が浮いている汚い海が広がっていた。ロマンとはほど遠い場所だった

小学生から好きだった刑事ドラマのシーンに「見た事ある風景だなぁ」等とブツブツ言っていると、亡き母に「なに言ってるの。近くにいたじゃない」と、指摘されて、あ〜あ……あそこかぁと気がつく始末。あの薄暗い小汚い風景が今では見られないのが哀しかったりもする。

山下公園のイメージ画像
横浜の桜木町に生まれ、徒歩5分のところに山下公園があった。今では綺麗になっているが、当時はロマンとはほど遠い地域だった

転勤族ではないけれど、親の都合で神奈川県内でも何度か引っ越しを重ね、大船の観音様に見守られ、今では渡れない鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の太鼓橋によじ登っては遊んでいた。

勿論、この頃いずれ文字で生活していく事など考えてもいなかった。敢えて思い出せるとしたら、とにかく本は好きだった。我が家は「漫画禁止令」が出ていたが、子供向けの世界名作全集とか、読みやすい時代小説、今ではほぼ売ってないだろう死ぬほど重い全20巻の世界辞典などはたくさんあった。

それから東京へ

その後、やはり親の事情で初めて東京に住むことになるが、横浜、大船、鎌倉で育った私には東京がなんだか、くすんで見えてしまった。
今までの環境と違い、手を伸ばせば隣の家、という狭っ苦しさ、当時は排気ガスぶんぶんの道路が近くにあって、気分はドッと落ち込んだ。

そんな中で驚いたのは、周囲の友達が平然と漫画を読んでいたことだ。なのに、我が家は当然の様に「漫画禁止令」が現存していたので、友達から借りてはコッソリ読んでいた。読むなと言われれば、読みたくなるのが世の常。親に知られないように漫画を密かに読むという行為は高校生まで続いていた。

そして、テレビはもっぱらアニメーションばかりを観ていた。漫画はダメでアニメはOKという教育方針は知るよしもないが、気がついた時は既に漫画とアニメの虜となって、親とは大喧嘩をしながらもひたすら漫画・アニメの道に走り、いつしか「アニメーションの脚本家になる」と勝手に思い込んでいた。
そりゃあ、周囲の大人達からは今まで以上の妨害があったが、そこはもう譲れなくなくなっていた。気がつけば、アニメーション脚本家のパイオニアでらっしゃる辻真先先生に図々しくお目にかかりに行きはじめると、親も根負けしたのか渋々許してくれた。

ようやく「勝った!」と喜々として、ひたすらアニメーションスタジオに見学に行ったり(当時は歓迎してくれたのですよ)、辻先生が書斎として使っていた有楽町の喫茶店に足繁く通って、短大を出た途端、アルバイトを掛け持ちしながら『日本放送作家教室/現・日本脚本家連盟のライターズスクール』へ。

マンガを読む女性
漫画禁止令が出ていた我が家。友達に借りてコッソリ読む行為は高校生になるまで続いた

そこで出会ったのが、デビューの切っ掛けになったニッポン放送の名物プロデューサー、ドン・上野。持ち込み原稿が採用されてから、小さな事務所の末席においてもらい、ADをしながらの修行。その時の1ヶ月のギャラが2万円だったかなぁ(後にからくりを知るが)。
それでも、いつかはアニメの脚本家になるという夢を持って、ラジオで作ってもらった人脈を活かして、ようやくアニメーションの脚本家としてデビューできた。その頃は丁度人材不足だったおかげで、休む間もなく仕事が舞い込み、今では当たり前の二次使用料が法制化され、私ごとき若輩者でもヒット作に関わると通帳の「0」の数が違った。

どうやら、「こいつは嫁にいく性根がない」と思ったのか、入ってくるお金はほとんど亡き母が上手に貯めてくれていた。お陰で銀行に信用されていたのか、マンションのローンは「へ?」というくらい簡単に組め、最終的にお一人様まっしぐらの私は実家は絶対に分譲と決めていた。かといって一軒家なんぞ買えるわけはない。マンションで充分。

ローンの組み替え組み替えをしながら、現在のマンションは終の住処として3件目。ローンも終え、これで落ち着いた生活がおくれると思っていたら、50歳を越えてアニメの専門学校の講師を7年経験し、その卒業生達が居酒屋より安く済むと味を占め、毎月誰かしら「スナックまみは開いてますか〜?」と持ち寄りで集まるようになってしまった。

宴会のイメージ画像
現在のマンションは終の住処として3件目。講師を務めたアニメの専門学校の卒業生達が持ち寄りで集まるように

親の都合とはいえ、横浜にずっといたら、おそらくこの商売に突進しなかったと思う。
改めて数えて15回の引っ越しで様々な人達と出会っていなければ、今の私はなかったと思う。その辺は東京に感謝している。

とはいえ、終の住処が東京になった今でも私は未だに横浜が懐かしい。
あの汚い「赤レンガ倉庫」と素っ気ない「山下公園」がいつも記憶にある。

次回は放送作家の深田憲作さんへ、バトンタッチ!

是非、ご覧ください!

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一般社団法人 日本放送作家協会
放送作家の地位向上を目指し、昭和34年(1959)に創立された文化団体。初代会長は久保田万太郎、初代理事長は内村直也。毎年NHKと共催で新人コンクール「創作テレビドラマ大賞」「創作ラジオドラマ大賞」で未来を担う若手を発掘。作家養成スクール「市川森一・藤本義一記念 東京作家大学」、宮崎県美郷町主催の「西の正倉院 みさと文学賞」、国際会議「アジアドラマカンファレンス」、脚本の保存「日本脚本アーカイズ」などさまざまな事業の運営を担う。

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